救いの道

救いに至るように導く神の素晴らしい恵み

金 洪晩著

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

前書き

 

 

 

 使徒パウロはエペソ教会に送った手紙で、真理の御言葉の体系を説明しました。パウロは真理の御言葉の体系を学べば、キリストの奥義を知るようになり、これは使徒たちと預言者たちが啓示によって受けたことだと言いました。この真理の御言葉の体系は、父なる神と御子が立てた、選んだ民に対する救いの約束とそれを実行なさったキリストを説明し、聖霊様は救いが実際に起きるように適応なさるのです。パウロがこのように言うことができたのは、三位の神さまが秩序良く実行なさったからです。

 しかし、今日の教会は悲しい事に真理の御言葉の体系についてよくわかりません。父と子の間の契約についてもよくわかりません。それで、御子の死を一般的な恵みとして解釈したり、あるいは聖定を反対したり、曲解したりします。また、救いについてもキリストの贖罪だけを説明します。これは聖霊がなさる救いの適応についても無知な証拠です。もっとも、人間がする意志の決心を信仰として見て、聖霊の御業なく、信じようとする愚かな考えです。

 過去教会の歴史の中にもこのような場合が多くありました。教会に出席はするが、救いの道について無知なのです。自分たちは救われたと考えるが、実際には救いの恵みがないのです。このような人たちが多ければ教会は敬虔を失い、世俗化されます。預言者イザヤと使徒パウロが嘆いたように、教会の中に救われた人はごく少数になります。

 御言葉が証する真の救いの道を知らないというのは、危険な事です。救いの確信のためには、聖書的な救いの道を知らなければならないのです。三位の神さまが選んだ民をどのように救うのかを知って、適応させなければなりません。読者たちが神の救いの方法を正確に知って、適応させ、救いを確実になさることを願います。本書が出るまで支援を惜しまなかったウェストミンスター教会の金ヨンス牧師と聖徒たちに感謝を申し上げます。

                韓国清教徒研究所所長 金洪晩 (P.D

目次

前書

1.    救いの道

2.    人間創造

3.    堕落

4.    罪の責め

5.    恵み契約

6.    福音伝道

7.    聖霊の有効な召し

8.    悔い改め

9.    信仰

10. キリストとの結合

11. 義認

12. 養子

13. 聖化

14. 牽引

15. 救いの確信

16. 聖定

17. 死と最後の裁き

終わりに

 

 

 

 

 

1.  救いの道

それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ2427

 

 

 

 

聖書は神様がどなたであるのかを証しし、人間が救われる方法が何かを確かに提示しています。そして、救いを受けた信者が神様に仕え、聖く生きる真の方法をはっきり教えています。また聖書は、歴史の中でご自身の民を罪と悪からお救いになる神の贖いの歴史を記録しています。

 

 みことばが証しする聖書的救いの道を説明しようとすれば、神の救済史的観点から出発しなくてはなりません。神様が人をどのように創造し、その目的は何であったかを知るべきです。また、神様が創造したその人がどのように堕落し、堕落した人を贖うために、歴史の中で神様がどのように働かれたのかに注目しなくてはなりません。それだけではなく、神様がなぜ契約に従ってキリストを遣わされたのかを知るべきです。キリストがどのようにこの地で贖いの働きを行われ、十字架の死と復活の後、天に昇天し、神の御座の右に着座され、聖霊を送られたその目的と理由も知るべきです。

 

 2千年前のキリストの十字架の事件が、今日を生きるその選ばれた民たちにどのように実際に適応されるのかについても、知らなくてはなりません。勿論、この時代を生きる人々の中で誰を神様が選ばれたのかについては、救いの効力が現れる前までは知ることができません。それゆえ、2千年前にカルバリの丘で流したキリストの血を今の時代にも熱くさせて、罪人たちの良心に注ぐ聖霊のみわざを知るべきです。

 

 聖書的救いの方法と原理を知るためには、救済史の中で三位の神様が働かれる原理と方法を知るべきであり、今日私たちに実際の救いが起きるようにするみわざと方法も知るべきです。これはただ断片的な救いの序程を知ることだけでは解決できないのです。神の贖い史のドラマ全体を理解する中で、実際に私たちに救いがどのように適応されるのかを知る必要があります。

 

 結局、聖書的救いの道を理解するためには、「三位の神様の贖いの方法は何か、救いがなぜ私に必要なのか、罪人を救うために用意した贖いの方法は何か、私はなぜキリストを必要とするのか、キリストの血が私にどのような効力を与えるのか、救われた人であればその証拠は何か」について、限りなく質問し、答えを探す過程が必要なのです。

 

 

 

 

 

 

 

2.  人間創造

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」と仰せられた。(創世記126

 

 

 

神様は、宇宙万物を造り、六日目に人を造りました。人を六日目に造られた理由は、すべての被造物の上に素晴らしく優れたものにする目的があったからです。また、一人の人によって神の栄光を表すように造られました。勿論、人を創造の最後に造られた理由は、天と地とその中にあるすべてのものを、先に造られた人にプレゼントとして与えるためでした。このように、神様は人を造り、すべてを人のために備え与えました。初めに造られた人は、自分のすべての必要を満たす神様を絶対的に信頼すべきでありました。

神様は人を体と霊魂を区分して造られました(創世記227、ヨブ111-12。体は土を材料にして、まるで陶器師が器を練るように造り、そのように造られた初めの人をアダムと呼びました。土を材料にして造ったというのは、アダムに謙遜、つまり神と同じようになろうとする欲望を持ってはダメだということを教えるためでした(創世記1827。また神様は人に対して絶対的権威をもっておられる方であることを教えています。人は神様の命令に従順するべきであり、その権威の前に謙遜であるべきです(ローマ921人は体と共に霊魂を持った存在として造られたので、これは霊的実体を意味します。神は人に息を吹き込んで、生きる霊魂になったのです(創世記27、マラキ215。人は他の被造物と違う霊的な存在です。その霊魂は不滅な存在として体が死んでも死にません。霊魂は五つの特別な機能を持っていて、理解力、記憶力、良心、意志、情緒がそれです。

「神は人を神のかたちに造られました。」(創12627。人の霊魂を造られるとき、神的な状態をその中に植えつけました。霊魂の五つの機能の中に、聖であり完全な徳を置いたのです。理解力の中には、神の御心に対する知識と真の知恵を置きました。記憶力の中には、すべての聖なるものを必ず記憶するようになさいました。意志には、神の戒めを自発的に楽しんで従順するようになさいました。そして情緒には穏健であり聖であるようにさせました。良心は、純粋で清潔にさせました。これほど人は存在とその質的な面で優れた存在です。理解力の中には知識と知恵があって、(詩篇516、コロサイ310意志の中には義と聖なるものがありました(エペソ424、Ⅰペテロ115-16

人は創造主なる神様と特別に似ています。人を通してご自身をある程度表すためでした。神は人に戒めを与え、守るようにさせました。人は神の戒めを守りながら、神を愛するのを表します(Ⅰヨハネ52。人が神に従順しながら神の栄光を表すことです。そして、人同士愛し合う目的がありました。

神が初めに一人の男と一人の女を造られるとき(創世記127、女を男から、男のために造られました(創世記221-22、マラキ215。女を造られるとき、アダムを眠らせたが、これは私たちの真の親である神にすべての思い煩いを委ねなさいということです。神が私たちを保護することを見せるためです。このように男と女を造り、一つにし、組にし家庭を営むようにさせました。これは命の跡取りを共に受けるようにさせるためでした(Ⅰペテロ37人の弱さを助け、それによって味わう助けについて神に感謝をするようにさせるためでした。人を造る秩序についても男を先に造り、女を男のあばら骨をとって造られたのを、使徒パウロは、男が女から造られたのではなく、女が男から造られたのだと語っています(Ⅰコリント118つまり女は男に服従しなければならないということです。アダムは妻に名前を付けてあげました。妻を愛するのは男がしなければならないことです。アダムが妻を神様から頂いたとき、彼は賛美しました。妻は神からの賜物です。従って夫は妻を愛し、大切に思うべきです。

このように神様が初めに人を造られたとき、人の体には病気もなかったし、死もありませんでした。人の霊魂は神のかたちで造られたから、義と聖がありました。それで人は、神様の御心に喜んで従順することができました。また神と思い切り交際を味わい、その霊魂はとても幸せでした。これが人が堕落する以前の姿です。




4
.罪の責め

すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、誰があなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」(創世記311

 

 

 

 

 

禁止された善悪の実を食べ、罪の羞恥心を隠す為に、いちじくの葉で衣を作って着たアダムとエバに神が訪れて行きました。そして隠れていたアダムに、あなたはどこにいるのか聞きました。彼がどこにいるのか知らなくて質問なさったのではありません。神さまはアダムの罪を現わす為でした。アダムは神の声を聴き答えました。私は裸なので恐れて隠れました。と答えました。神さまは続けて質問なさいました。誰がアダムとエバに裸なのかを教えたのかを質問なさり、善悪の木を食べたのかと質問なさいました。その時アダムは、罪の告白ではなく言い訳を言いました。エバにも聞いた時、やはりエバも罪の告白より言い訳を先立てました。神さまがアダムとエバにこのように質問なさったのは、彼らが自分の罪を悟るようにさせる為でした。アダムとエバが堕落した以降に得たカインの場合にもこのようにされました。神さまは捧げ物を間違って捧げたカインに、善を行わなかったとおっしゃって、正しく行っていなかったことを告げ、罪がさらに増加されていくことを警告なさいました。(創世記468しかしカインは弟アベルを野で殺しました。その時にも神さまは罪を犯したカインに弟はどこにいるのかと問いました。そして罪を隠そうとするカインにアベルを殺したことを現わしました。神さまはカインが罪を犯すたびに彼に現れてカインの罪を現わしました。

 第一の父母であるアダムとエバの罪はその当時十戒が与えられていなかったが、それを犯したのです。モーセに与えた十戒は、神さまが直接石の板に刻んで与えたが、十戒の内容は初めの父母であるアダムとエバの心に刻まれていました。これを自然法と呼びます。(ローマ214)アダムとエバには知識と正しさと聖があったので、この戒めなどを守る事ができましたが、犯しました。そして良心に罪意識が生じました。第一の戒めを犯したのです。神の愛と神の御言葉を疑い、それによって神に「不忠誠」の罪を犯しました。神の警告を無視し、かえって悪魔のことばを信頼しました。神を軽蔑したのです。神さまがエデンの園に与えたすべての恩徳に対して感謝もせず、傲慢と野望を持ち、知識にあって神と同じようになろうとしたのです。第二の戒めも犯したのです。神の御言葉より悪魔のことばを掴みました。また、第三の戒めも犯しました。傲慢によって、神の真理を投げ捨て、悪魔と仲良くしました。そうして神がうそを言うのだと思いました。第四の戒めを犯したのだという事になります。安息日に命の木によって礼拝することができなくなりました。第五の戒めを犯したのです。アダムは神の声を聴かずに妻のことばにもっと従順したのです。第六の戒めを犯しました。なぜなら、自分の全ての子孫を罪の定めと死の状態に至るようにさせたからです。第七の戒めの文字的な犯罪ではなかったが、暗黙の情欲に不適切な感覚に支配されたのです。(創世記36)第八の戒めを犯したのと、同じなのは現在の状態に満足せずに、もっと多く持ちたいという貪欲に支配されたのです。第九の戒めを犯した事になる理由は、真理と命の木について間違った判断によって神さまに対する間違った告訴を受け入れたのです。第十の戒めを犯したのは悪魔の提案を受け入れて、罪悪になる貪欲を持ったのでした。

 彼らの罪は、神さまの戒めを犯したのです。神さまは戒めを与え、罪人たちに罪を悟らせます。戒めは私たちの義務を確かに悟らせ、守らない場合に神の裁きがあるのを教えてくれます。つまり律法は、私たちに罪を確かに知らせてくれます。(ローマ32077神さまは罪人たちを直すために先に罪を現わして、罪を認めさせます。その時律法を用いります。

 律法と通して罪を悟り、赦しの必要性を知り、求めさせ、神に出てくるようになります。その時神さまが罪人の為に用意して下さった贖いの様式に屈服されるからです。しかし傲慢な者たちは神が用意して下さった贖いの方式について信じないで、軽視します。使徒パウロは、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求めると言いました。(第一コリント122ユダヤ人たちは驚くしるしを通して信じようとし、ギリシャ人は自分たちの理解に合った時信じる態度を見せました。彼らには十字架の贖いの方式がつまずきになり愚かに思えるしかなかったという事です。まだ自分たちの罪に対して悟っていないでいるし、赦しの恵みが必要だということも認識しないでいるから、目と目が合った時だけ信じるという事です。それで神さまは傲慢を壊すために罪人たちに聖霊のみわざと律法を通して罪を悟らせ、(ヨハネ168、ローマ77赦しと救いの恵みを探すようにさせ、神の贖いの方式に屈服させ、信じるようにさせるのです。

 

 

 

 

  

 

 

5.恵み契約

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。(ローマ518

 

 

 

アダムとエバが罪を犯して人類に罪と腐敗性が入り、人間自ら自分を救言えない状態にいるのなら、救いに対する望みがないのでしょうか。認類は多々神の裁きによって滅びるしかない事だけが残ったでしょうか。このような深刻な質問をすることができます。人は堕落したので、行為契約を通してくださる命を得ることができなくなりました。従って、救いの手段がなければ、人類は真にみな滅びに置かれるしかないのです。しかし神は、その限なる知恵と愛によって救い主を用意なさいました。神さまは、罪を犯した人間を救うために、御子を与える計画は永遠からでした。(エペソ14)御父と御子が人が堕落する前にすでに協議して置いたのです。(これをあがないけいやくといいます)アダムが堕落したとたんに選んだ民を救うために贖いの働きを始められました。神さまがアダムに訪れて、神の恵みによって回復させるという約束を与えました。女の子孫を約束なさったのです。(創世記315)神さまはアダムに裁きを宣言なさる以前、先に治療策を与えたのです。仲介者のおかげで、人は再び幸せな状態に至ることができます。(ガラテヤ32122節)神さまは罪人と和解するための約束恵み契約と呼び、また福音と呼びます。(エレミヤ313132)これは神さまが恵みによって与える約束であり、キリストの中にあります。この契約はまだ神さまが一方的に与えたのであり、火との立場では、約束を結べるほど、何の力も行為もないのです。

 神さまは旧約時代に仲介者を待ち望むように、約束、預言、割礼、須吾越祭の小羊を初め、ユダヤ人たちに色々の儀式と予表を与え、これが執行されるようになさいました。そのすべてへ将来来られるキリストを予表したものであり、旧約の民那智を教えるのに十分な者でした。約束されたメシヤを通して罪の赦しと永遠の救いを得ることができました。そしてついに時が満ち、神はキリストをこの地に遣わしました。(ガラテヤ44、Ⅰテモテ26)その以前は預言者たちを遣わしキリストが来られることを預言なさったのを成就させたのです。(ヨハネ145)仲介者、またキリストは神でありながら人にならなければならなかったのです。(ヨハネ114)これは神の無限なる知恵から出たことです。キリストは聖く罪があってはならないので、聖霊によって処女マリヤの胎を借り、超自然的に身ごもられました。自然的出生によっては、罪と腐敗性が転嫁されるからです。ヨハネの福音者ではキリストを御言葉として呼んでいますが、父がアダムに約束なさり、アブラハムと族長たち、そして預言者達にキリストを保証として約束なさったからです。キリストは父と共に永遠からおられました。私たちの罪に対する対価を支払い、神の怒りを納める為に救い主が必要であるがその方は神でなければなりません。(ヘブル914)なぜならどんな被造物と人生も、無限なる神の怒りを担いきれないし、私たちの罪のために苦しみを受けられないからです。従って私たちの仲介者は必ず神でなければなりません。仲介者はご自身の体で神さまの怒りを担い、私たちの救いの敵である悪魔を滅ぼし、死の罪から私たちを起こし、永遠なる命を所有するようにさせなければならなかったのです。そして仲介者は聖霊を私たちに送り、腐敗された性質を更新させなければならないです。これによって私たちが神と和解することができるのです。最もキリストはご自身を私たちと結合させ、私たちを父なる神さまの子供になる様にさせます。(ヘブル210)このような事などは、キリストが必ず人でありながら神でなければならないのです。なぜなら、人は苦しみを克服できるが死は克服できないので、キリストが神と人との間で仲介者となり、私たちが神と和解できるように必要なすべてを行ったのです。(Ⅰテモテ25、へブル915

 神と私たちを和解させる仲介者をキリストと呼ぶ理由は、神がご自身の全ての民のためにキリストを預言者、大祭司、王として油を注がれたからです。(使徒42627、詩篇457、へブル19)神さまはキリストに聖霊を注ぎ、仲介者の職務を担わせました。(イザヤ611、ルカ418)キリストはこの職務を担ったことで、私たちに十分な仲介者となられます。キリストは大祭司に職務を担うのに、ご自身の教会のために犠牲の生贄としてご自身を捧げられました。それで私たちが神と和解するようにさせました。(詩篇1104)この職務がなかったのなら私たちは神のみ前に義と認められず、神と平和を決して味合うことができません。キリストは預言者の職務を通してご自身の教会を教えます。(使徒322)キリストの教えられる職務がなければ私達は神を知ることができず、神に属することができないのです。(ヨハネ118)キリストは預言者として救いの方法と手段を啓示なさいました。(マタイ175)また王の職務としてご自身の教会を治めます。(ルカ133)キリストのこの職務がなければ私たちは罪とサタンの奴隷となったところから決して救われないし、永遠の命を所有することができないのです。

 キリストは人でありながら神として大祭司、預言者、王の職務を担いながら、二つの状態におられました。第一番目、へりくだった状態で人間の姿を着てご自身の体によって、罪のために苦しみを受けられ、十字架にかかりました。これによって大祭司の職務を担い、ご自身の王国に行ける道を開きました。第二番目、高められた状態でキリストはよみがえり、天に昇天し、神の右の座に着座されました。(マルコ1619)そして栄光を帯びてこの世を裁くために再び来られます。(マタイ2531)これはキリストの栄光を現わす事です。キリストが救い主だという事を宣言することです。(ピリピ278)キリストの死によって私たちの贖いのために代価が支払われ、その命によって私たちが義と認められるのを確信させるのです。(Ⅰペテロ119)結局神は罪人を赦し、贖う為に御子を遣わし、私たちの贖いを完成させたのです。そして聖霊を送り、私たちの霊魂の中に救いの恵みがあるように働かれたのです。神の御子によって確保された聖潔を、私たちの魂に適用させる働きをするになさいました。恵み契約の内容は、神が私たちの神となり、私たちに永遠の命をキリストにあって下さるのです。(使徒1630、ヨハネ112

 

 

 

 

 

6.福音伝道

神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。(ルカ177

 

 

 

 

 

 福音とは人類に対する憐みのメッセージです。それは救いに対する計画と展開を含んでいます。父なる神さまが特定な人たちを選び、救いの為にキリストを遣わし、キリストがどのような職務を担ったのかを入れられてあります。従って福音伝道の内容は神を知る知識とそれによって人が罪人であるのと、罪人を受け入れる為にキリストを用意しておいたのです。それで使徒たちと弟子たちは罪を悟って悔い改め、神に立ち返りなさいと叫びました。また神様が罪の赦しと救いの恩徳などをキリストの中に用意してくださったのを悟り、キリストを信じなさいと説教したのでした。(使徒2021福音伝道は実際に、救いが起きるようにさせる手段になります。それで使徒パウロは福音を伝える中で、聖霊の有効な働きが魂に起きることのために努力したと語っています。(Ⅰコリント24

 救いに必要な福音を知ろうとすれば、それに対する知識が要求されるが、とりあえず神に対する知識が必要になります。神に対する知識がなく髪を礼拝することは出ないし、人に対する知識も得ることができないからです。神さまは宇宙万物を造られたのと神は聖であり義であり善であるという知識があるべきです。神を知る知識は、人間が罪人であり、神の裁きの下にあるのを悟るようさせます。それで神の前に謙遜となり、神さまが用意した救いの方法について探すようになります。

 またキリストに対する知識が必要になります。キリストが罪人たちをどのように受け入れるのかについて知識がなくてはなりません。キリストに対する知識がなくては、キリストに対する信仰が不可能です。キリストは神と人としての存在であることについて知識が必要であり、人のためにキリストの贖いの御業についての知識がなくてはなりません。そしてキリストによって受ける恵みなどについて知識がなくてはなりません。このような知識があって、その知識の上に聖霊さまが働かれ、キリストだけが人を救える唯一な方法であることが悟れます。キリストの卓越性と美しさについて賛美するしかないのです。しかし、もしキリストに対して知識が不足だったり間違えたりすれば、キリストを知らないことになり、そのような状態にいれば、御利益信仰に陥るしかないです。これはキリストを自分の利己的目的成就の為の手段として転落させるので、深刻な罪です。それゆえ福音伝道にあってキリストが十分に証しされなくてはなりません。

 福音を伝える時聖霊のみわざを説明してあげなければなりません。イエスさまがニコデモに伝道なさる時、聖霊が新生させる御業について仰せられました。ニコデモはイスラエルの教師でありながらイエスさまのお言葉を聞いて理解できませんでした。聖霊の御業があってこそ、福音伝道者達の伝えるメッセージを理解することができ、実際に救いの恵みを体験することができるからです。(Ⅰコリント24聖霊の御業によって罪を悟り悔い改めが起き、キリストに対する信仰が起きるから、ましてやまだこれらを体験していないとしても、福音伝道の内容に含めなければなりません。神を知る知識と人を知る知識、キリストを知る知識があるとしても、理知的知識自体が救いではないからです。最も聖霊の教えにあってこそ、聖書について正しく理解することができるからです。

 このように福音伝道のためには必ず含めなければならない内容などがあります。初代教会の伝道は、教える伝道でした。(使徒542簡略な伝道冊子を伝えてあげるのではなく、三位の神の贖いの働きを深く教えることでした。なぜなら聞く人々には神の御言葉の知識が十分でなければならないし、その知識の上に実際的な聖霊のみ業があってこそ信じることができるからです。伝道の結論の部分に至っては、恵みの方便について説明しました。神さまが選んだ者を召し、彼らに救いが起きるように定めて置いた方便、手段があります。それは神の御言葉と祈りです。それで福音伝道の最後の部分で被伝道者に神の御言葉を読み、説教を聞き、研究しなければならないと教えてあげるのです。なぜなら、このような手段の下にあってこそ聖霊様が働いて救いが起きるからです。最も神の御言葉が恵みの方便として神さまが用意して置いた手段であるが、それの上に聖霊の働きがなくてはならないので、聖霊の悟らせる御業のために祈らなければならないのです。結局被伝道者は、神の御言葉を一生懸命読んで研究し、聖霊の御業が自分の魂の上に起きるように祈らなければならないのです。もちろんこれは神さまが定めて置いた手段であるから、私が手段を用いて恵みを受けるのではなく、神が手段の上に聖霊が働かれることを約束しておいたのです。このように、恵みを受ける過程で私たちの功労はない事を記憶しなければならないのです。

 

 

 

 

 

 

7.聖霊の有効な召し

しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。(Ⅱテサロニケ213

 

 

 

 

 

 キリストが十字架の上で血を流され、選んだ民の罪の代価を払われました。しかしキリストの血潮が実際に魂の上に適応されるには、聖霊の有効な御業によってであります。罪の勢力に縛られている魂の救いは、キリストの霊的な力によって成し遂げられます。(ヨハネ836罪は鎖と同じで、私たちを縛って離さないので、サタンは私たちが抜けられないように主管します。まるで監獄に閉じ込めて、監獄の門を守るのと同じです。そして不信仰と霊的道の中に閉じ込め、救いの恵みに出て来られないようにします。従ってこのような状態にいる魂を救うためには、聖霊の強力な働きが必ず必要になります。

 聖霊様がキリストの十字架を魂に適用するようにさせるのは、霊的無知から救い出し、罪を確かに悟らせ、自分の罪を見るようにさせるためです。(ヨハネ1689聖霊様が魂を責める時は律法を用いります。それで罪人は律法を通して罪を具体的に悟ります。(ローマ320罪を悟った罪人は、自分の罪によって、神の裁きが不可避だというのを悟るようになります。それで罪人は恐れを感じて震えます。聖霊様は罪人たちに罪を悟らせるとき具体的に彼らの特定な罪などを現わします。(ローマ39彼らが神の法を犯し、神に敵対したことを知るようにさせます。自摸人たちは自分の罪に対して驚いたり、罪による裁きを恐れたりするために、何をどうしたら救いを受けられるのかと叫ぶようになります。(使徒237

 預言者サムエルが王を求めた民の罪を示し、責めました。そして彼が神様に祈った時、雷と大雨が降りました。イスラエルの民は雨が降らない季節にもかかわらず、叩きつける雨によって神の厳重な裁きを悟って、恐れながら叫び続けました。(Ⅰサムエル1219イエスさまは井戸の傍らで、女の罪を現わしました。女は自分の罪を見て叫びました。(ヨハネ429聖霊様が魂の上に働かれ、彼らの罪の状態を悟らせるのです。主が彼らの霊的無知の状態と、頑なな心、石の心の状態から目覚めさせる方法です。それで一番先に彼らの罪を悟らせ、彼らの中にキリストのない状態を分からせるのです。彼らが密かに罪を犯しながら生きる姿を現し、罪人であることを確かに教えるのです。

 聖霊様は罪を悟ることから始められ、人が自分の罪を確かに悟って、その罪の悪を見るようにさせます。そして、自分の罪のゆえに神の裁きを恐れます。自分の罪に対して悲しみます。罪に対して悲しむ現象は、痛哭する者たちに必ず無くてはならないのです。このように罪に対して悲しみながら、その魂は、砕かれた心になります。罪に対しての悲しみは、罪を憎み、吐き気がする心境を起こします。それでその魂によって、罪から離れるようにさせます。多くの魂などは、罪は分かりながら、罪から離れない場合を見ます。

 パロ王はモーセの前で自分と民の悪さについて告白はしたが、罪からは離れませんでした。(出92734ヘロデ王はバプテスマ・ヨハネから罪を責められた時、自分は不義だというのを認めながらバプテスマ・ヨハネを正しい者と思いました。しかし、自分の罪悪な生活から離れませんでした。(マルコ620従って、真の悔い改めに出ていく過程で、痛哭が必ず無ければなりません。それは聖霊の御業によって自分の罪に対する神の裁きの恐れと、罪に対して悲しむこと、そして罪から離れることです。

 聖霊様が罪を悟っている罪人に続けて働かれるので、砕かれた心を作り、痛哭させるようになります。また一方では、罪を悟った罪人が罪から離れながら、罪を犯すまいともがくようになります。そして、神の戒めに従って生きようと努力します。しかし、そのような事が効果的になって行かないことを悟るようになります。やはり自分を掴んでいる腐敗性が霊的な生活を妨害し、足首を掴んでいることも知るようになります。最も、徹底して自分の霊的無知についても悟るようになります。聖霊様がこのようになさるのは、魂が間違った救いの確信を持たないようにさせるため、しぶとく魂を支配している傲慢を打ち壊す為です。人々は自分の行為によって自分を救おうとする性質が腐敗された本性に深く居座っているから、聖霊様がこれを壊す作業をするのです。

 聖霊様は宗教的義務を行う事で、自分に救いがあるかのような無駄な確信を壊します。また、自分のある宗教的行為によって自らを救い得ないことを徹底して悟らせ、ただ恵みだけを求めるようにその心を低くさせるのです。そうしなければ、人の本性深くに居座っている傲慢がまた蘇って、まるで自分の行為によって恵みを受けたかのように考えるからです。聖霊様がその魂をまことに低くさせた状態は、自分の行為が何にもならないだけでなく無能だというのを悟って、救いのためにだけただ主に恵みを施して下さる事を期待し、求める姿を現します。(詩篇13056

 霊的に謙遜になった罪人は、赦しと救いの恵みを探し求めるようになります。このように探し求める時、聖霊様はキリストの中に神さまが用意して置いた救いの恩徳などを発見するようになります。この時罪人である事を徹底して悟り、自分の不義を覆うことを願う魂は、キリストの中にある救いの恩徳などが自分に余りにも大切で必要だというのを知っているので、キリストに向かって走って行くようになります。このように霊的に謙遜になれた魂はキリストに向かって走り、掴むようになります。キリストを掴むことを信仰と言います。(ローマ15このような信仰の有効な原因は聖霊の御業による事です。聖霊様が魂の救いの為に一連の過程を通らせながら、働かれるのを聖霊の有効な御業といいます。これは聖霊様がキリストの死を実際的に魂に適応させる御業です。聖霊の有効な御業と言います。

 

 

 

 

 

8.悔い改め

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント710

 

 

 

 

 

 

 悔い改めは聖霊の御業による新生の実です。広い意味からでの悔い改めは、回心の全課程を含めています。罪人は聖霊の御業によって自分の罪をまことに認識し、嫌悪するようになります。それゆえその罪から立ち返り、新しい従順によって徹底した決意によって神さまに向かうのです。悔い改めにおいて一番重要な核心は、罪から離れ、神さまに向かう事です。このような悔い改めは聖霊の御業によるのです。

 救いに至らせる悔い改めは、律法を通して、自分が罪人であり、罪によって汚れている心を自覚し、絶望の状態にいるのを認知する所から出発します。又自分の罪を解決しようとすれば絶対的に神の憐れみを受けなければならないという確信を持つようになります。悔い改めはキリストの中にある神の憐れみを掴むことを含んでいます。自分の罪を徹底して悔いながら、神さまがキリストの中に用意して置いた恵みを得ようと出てくるのです。そして赦しを求めた罪人は、恵みを受け、神に感謝する他ないようになります。(ゼカリヤ1210

 救いに至らせる悔い改めは、効果と証拠があります。罪がどれだけ悪で汚いのかを経験したから、罪に対して憎む心が起こるようになります。これは純粋に聖霊の御業です。聖霊様は、回心以降にも続けて罪に対して憎み、戦うように霊的性質を心に植えて置きました。それゆえに、まことに悔い改めた人たちには罪を憎むのが当然に現われるようになります。もし、ある人が悔い改めたと言いながら同じ罪を続けて習慣的に犯しているならば、まことに悔い改めた者ではありません。(Ⅰヨハネ36

 救いに至らせる悔い改めは必ず罪から離れ、神さまに立ち返り、神に仕えるようになります。(Ⅰテサロニケ19)そして神と同行する生活を生きようとし、神の戒めを守ろうと努力するようになります。このような証拠が現れた時こそまことに悔い改めと言えます。使徒パウロはユダヤ人と異邦人たちに悔い改めて、悔い改めに相応しい事をしなさいと言いました。(使徒26:20)「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」罪を捨て、ただ生きておられる唯一の神だけに仕える姿こそ、まことに悔い改めたと言えるのです。

 もちろん神さまに立ち返るのは意志によってしますが、聖霊によって更新された意志です。全ての事に神の御心と戒めとに従順しようとする決意があるべきです。そして罪と戦う姿が現れるべきです。悔い改めた者が罪と戦おうと努力する時、常に勝利して罪を犯さないわけではありません。悔い改めた者でもまだこの世に生きているので、悪魔が誘惑して信者の中に腐敗性がまだ残っているので罪を犯します。しかし、まことに悔い改めた者でも自分の弱さによって罪を犯すとしても、悔い改めの原理がその心に刻まれているので、毎日新しく罪の悔い改めをするのです。だから悔い改めは一生の作業です。そして、罪を犯さないように最も恵みを掴ませる神の恵みの方便です。

 しかし、嘘の悔い改めにはこのような実などがありません。一時的な悔い改めの場合はエジプトのパロ王の様に罪を悟って告白はしたが、苦しみが無くなると再び罪を犯します。彼の悔い改めの告白がいくら立派で完全だったとしても唇の告白だったため、実際に神に仕え、立ち返ったわけではないので救いを受けられないのです。聖書には折半の悔い改めも語っています。ホセア7:8で、「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる。」と語っています。ひっくり返さないパンケーキは、半分は焼かれているけれども、もう一方は焼かれていない状態なので、自分の現われた罪に対しては悔い改めるけれども、現われていない密かな罪は、続けて犯している状態です。このような悔い改めも救いと無関係です。

まことに悔い改める者は聖霊様が罪人たちの罪を具体的に悟らせて、責める所から起きます。従って、自分の悔い改めによって赦しを受けたとは言えないのです。自分の悔い改めが条件になって赦しを受けるのではないからです。ただ神の恵みによって悔い改めさせて、神の恵みによって赦しを受けるのです。私たちはこの部分で新生していない意志によって自分の罪を思い出させ、悔い改める方法などを警戒しなくてはなりません。このような悔い改めは、フェリックス総督が自分の罪は悟ったが、立ち返らなかったことと同じです。(使徒2425フェリックス総督は罪から立ち返ることもできなかったのです。なぜならその意思が更新されていなかったからです。従ってまことの悔い改めには手段に注目すべきです。

 預言者エレミヤは、「主は私の神、主です。私を導いて下さい。私を帰らせてください。そうすれば帰ります。」と言いましたが、まことの悔い改めができるように先に神さまが恵みを与えて下さるので、そう願うことができるのです。

まことの悔い改めの為には、自分の罪を具体的に悟るべきなので、預言者ホセアは次のように言いました。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。」(ホセア14:1,2)。まことに悔い改めるためには神の御言葉によって自分の罪を具体的に悟らなければなりません。まことに悔い改めるためには、神の恵み、即ち聖霊の御業を求めなくてはなりません。

 

 

 

 

 

 

9.信仰

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ28

 

 

 

 

 

 

 信仰の過程は聖霊の有効な御業によって信仰が発生され、キリストを信じるのです。信仰の発生は徹底して聖霊の働きによるのです。(Ⅱコリント413、エペソ11719。もちろん、これは聖霊様が御言葉の働きの中で行なわれた結果です。神の御言葉が宣言され、聖書を読む中で、聖霊様が御言葉の上に働かれ、魂に影響を及ぼすのです。それでパウロは、「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Ⅰテサロニケ15と語られました。従って、新生していない人間の自由意思によってイエスさまを信じると決心するのは間違ったことです。先に聖霊様の有効な御業があってこそ信じられるのです。

 

 救いの信仰は神の御言葉に啓示されているすべての真理はもちろんであり、特に救いに関連した教えについて霊的理解力があるのを前提します。しかしその知識が真理に対する知的同意に過ぎないのなら、救いの信仰とは言えないのです。救いの信仰とは、まず自分が徹底して罪人だというのを悟る中で、赦しの必要性と自分の不義を覆おうとする熱望があるのを前提します。このような霊的覚醒があってこそ、キリストの中にある神の贖いの恵みが大切だというのと、その必要性を認識するようになるからです。

 

 赦しの必要性を切実に悟っている者が、聖霊の御業によってキリストの中にある救いの恩徳などの大切さを知り、それを得るためにキリストに走っていくこと、それが救いの信仰です。救いの信仰は、ただキリストだけが救いの方法であることを悟り、キリストの中にある赦しと義とが自分にどれだけ大切であるのかを徹底して知っている状態です。救われるためにただキリストだけを掴んで頼ります。もちろんキリストに出て行くとき、困難はあります。しかし、救いの信仰は困難を克服します。意志が更新されていて、恵みが切実に必要だからです。イエスさまが「わたしについて来ようとするなら、自分を否定し、自分の十字架を背負ってついて来なさい」とおっしゃったが、イエスさまの大切さを知っているので喜んで自分を否定し、十字架を背負い、イエスさまについて行くのです。これこそまことの信仰のしるしであり証拠です。また救いの恵みが大切であり、値打あるのを知っているから、疎かに思えないのです。(へブル23

 

 一方で、救いの信仰でない場合があります。歴史的信仰は、救いの教理について同意する程度として、これは程度に過ぎない事なので救いの信仰ではありません。これを一般的信仰だといいますが、使徒信条の三位の神の贖いの働きについて暗唱して、キリストが罪人のために十字架で死なれたことを知的に知っている状態です。しかし、キリストの贖罪のために死の大切さと、それが

自分になぜ必要であるかについては、まだ霊的に無知な状態です。

 

 一時的信仰は救いの信仰ではありません。一時的信仰には、ある霊的な体験もあります。御言葉を聞く時、喜びをもって受け、楽しみます。しかし、御言葉によって困難が起こると、信仰の道から外れます。(マタイ1320)。その者達の霊的体験は幻的であり、興奮的体験でした。御言葉の上に働かれる聖霊の御業がなく、軽く信じようとして、自分の栄光と目的のために信仰の真似をしていた場合です。それで最後まで信じられないで、途中で放棄するようになります。

 

賜物的な信仰も、救いの信仰ではありません。イエスさまは信仰があるならば,山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」と仰せられました。(マタイ2121。そして、信じる者たちには、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けないしるしが伴うと仰せられました。(マルコ1618イエスさまがここでおっしゃっている信仰は救いの信仰ではなく、賜物的な信仰を語っています。もし本文を救いの信仰と解釈するなら、救いの信仰を持っているすべての者が毒を飲んでも、何の害をも受けてはなりません。しかし、救いの信仰があるとしても、毒は飲んだら害を受けるようになります。従って賜物的な信仰は、機能的なものとして霊的身分を表したり、証明したりするのではありません。

 

 

 

 

 

 

10.キリストとの結合

 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです(ローマ65

 

 

 

 

 

 

聖霊の有効な御業によって魂は、神様がキリストの中に用意しておいた救いの恩徳について悟り、それを得るためにキリストに向かって走って行きます。聖霊様が信仰を発生させたからです。信仰を持ってキリストを掴むようになった時、その魂はキリストと結合されます。(エペソ21844)。それで魂はキリストの職務から出て来る恩徳などに参与するようになり、キリストの中にある、あらゆるものを所有するようになります。(黙示録228、コロサイ210。そしてキリストにあるすべての豊かさに参与するようになります。(Ⅰコリント130)。キリストの父が私たちの父になります。(ヨハネ101617。キリストとの結合によって神を所有するのです。キリストの約束が私たちのものになります。(Ⅱコリント120。またキリストの勝利と栄光が私たちのものになります。(ローマ828、ヨハネ724)。

 

 信者とキリストとの結合は、ローマ65節「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」と同じように、枝のつぎ合いになるのです。台木につぎ合わされた枝は、台木の命を共有し、命を得るのです。それで、キリストの義が信者に転嫁されるので、信者が義と認められるのです。(ローマ324

 信者はキリストとの結合を通して、キリストの死を経験し、罪に対して死に、キリストの復活に同参し、正しい生活を生きるようになります。つまり信者は、キリストとの結合によってキリストの聖さが自分の魂に入って来るので、その効果によって必ず聖なる生き方を追求し、罪を殺す作業をするようになります。従ってキリストとの結合は、その実によって証されるしかないようになります。キリストと結合された信者は正しい生活を追求し、キリストの命令に喜んで従順し、神さまに相応しい実を結ぶようになります。(ローマ74

 

信者はキリストとの結合を通して、また、その中で働かれる聖霊の御業を通して、霊的命を得るようになります。聖霊は続けてキリストにあって信者に恵みを供給します。キリストによって命の髄液を続けて供給されるので、霊的に生き生きする生活を生きるようになります。キリストとの結合は持続性を持っているので、信者の霊的命は維持され、守られます。そしてキリストの中にいる者たちには直接的な結果と色々な証拠が現れるようになるしかないのです。神の形の回復が起き、キリストに対する愛が増加され、主に仕えようとする献身がますます増加するようになります。

 

 信者とキリストとの結合は、信者が苦しみを受け患難を受ける時に大きな慰めになります。キリストの愛が私たちを強め、私たちが滅びないように保たれるからです。使徒パウロが「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか」(ローマ835と語った理由は、キリストとの結合のゆえであります。どんな障害物も信者とキリストとの結合を引き離すことができません。

 

 キリストと結合された者は、この世での生活にあっても良心の平安を味わうようになります。キリストの中にいるから誰も罪に定めることができません。また、神の優れた愛がキリストの中にあるから信者は神の愛について確信を持つようになります。キリストの中に言いようもない豊かな恵みによって、私たちを最後まで保たせてくださるのを確信するようになります。(ユダ24

 

 真の救いの信仰によってキリストと結合された信者は、キリストの中で行うようになります。キリストの外で行うのは罪です。ですから霊的注意をすべきです。信者はキリストの御心に従うべきであり、その御心と一致した生活を生きようとする熱望があるべきです。

 

 また、一方では、キリストを信じると言いながら罪を犯し続づけたり、または恵みを乱用して、肉的な生活を持続するなら、それはキリストと結合されているのではありません。(ユダ4)。キリストに対する信仰告白は有るけれど、神に対する正しい生活をしようとする熱望がなかったり、それらについて熱心がないなら、それもやはりキリストと結合されているのではないです。最もキリストについて教えているが、やみの中にいるなら、偽りを言っている者としてキリストと結合されているのではないです。(Ⅰヨハネ16)。なぜならキリストとの結合は、そのような生活を生きるようにさせないからです。

 

 

 

 

 

 

11.信仰義認

 

それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる為なのです。(ローマ326

 

 

 

 

 

信仰によってキリストと結合される時、キリストの中にあるキリストの恩徳に参与するようになります。キリストの義が信じる者に転嫁されるのです。(エペソ13。これによって罪と死の状態から正しく永遠の命の状態に変わります。(Ⅰヨハネ314)これは神の迅速な宣言によるのです。(ローマ834)。神さまが罪の定めの状態にいる者を無罪放免なさるのです。キリストの義を信じる者に転嫁させてそれ以上その人の罪を見ないで受け入れて下さるのです。 

 

キリストが人間の姿を着て私たちの頭になったことで、神の律法に完全に従順なさり、私たちが受けるべき罪に対する裁きを受けられました。(Ⅰペテロ224。このような従順によって得たキリストの義が、キリストと結合された者に転嫁され、正しい者と認められるのです。(ローマ519。そういうわけで、信仰によって義認とされるのは、罪の赦しを受け、正しい者と認められるのです。キリストの従順によって私たちの罪に対する負債が解決され(ローマ48私たちの不義が覆われるのです。(Ⅱコリント521。もちろん義認が罪の全ての効果を取り除き、罪と死から解放させたというのではありません。永遠の死に対する罪責が取り除かれたといえるのです。(ローマ813334。つまり、義と認められたというのは本性の変化を言うのではなく、状態の変化を意味します。

義と認められるためには、霊的な前提があります。自分の罪がどれほど深刻で嫌悪なものであるかについて徹底して悟っていなければなりません。そして自分の罪について神の厳重な裁きをも知っていなければなりません。それで神の恵みによって、自分の罪の赦しを求める過程がなくてはなりません。また自分には、どんな正しいものもない事を悟り、自分の不義を覆おうとする渇望がなくてはなりません。これは聖霊様が罪人たちをキリストに導く方法です。結局、聖霊様がキリストの中に赦しと義があるのを悟らせ、罪人がキリストに走っていくようにさせます。キリストを掴むようにさせるのです。その結果キリストと結合して義認が起こるようになるのです。

 

真に義と認められた者は、罪から赦されたことに対して、感激の涙を流すようになります。自分の不義を覆ってくださったキリストの義の貴重さのゆえに、その恵みを大切に思うようになります。(へブル23。そしてキリストに心を尽くし賛美します。キリストの素晴らしさのゆえに歌います。神さまが不義なる者を義人のように待遇して下さったことのゆえに感激します。キリストを通して、選ばれた罪人をお救いになる神の知恵について賛美します。(Ⅰコリント12430-31)。

 

義と認められた者に現れる効果は、神と和解されたことによって良心の平和を味わいます。そしていつでも神の御座に自由に出て行けるようになったことを分かります。その恵みと聖霊の賜物を味わうようになれば、聖化の恩徳も得るようになります。義認がそれを保証します。律法による罪の定めから自由になったので、律法の告発からも安全です。悪魔の権威、背教、以下災いの全ての原因からも安全です。またキリストの贖いの全ての恩恵に参与できます。もちろん義と認められた者でも、この世で生きて行く限り、続けて罪を犯します。ですから義と認められた者たちは、毎日悔い改めるべきであり、神さまは罪を赦します。(Ⅰヨハネ179212)。時には、神さまは信者の罪に対して懲らしめ、心から悔い改める時まで恵みをしばらく猶予します。(詩篇93133、Ⅰコリント⒒:3032)。永遠に恵みを猶予なさったりはしません。ですから、正しいとされた状態から絶対に外れたりはしないのです。(へブル1014)。

人たちがしばしば義認について間違って解釈したり、曲解します。自分の宗教的な行い、あるいは律法を守って義と認められようとします。これは深刻な間違いで、律法を通してまだ自分の罪と無能を見ていない状態です。もし、このような間違った状態にいるなら、聖書を読んで学びながら聖霊の御業を求めるべきです。もう一つの義認に対する間違いは、聖霊の有効な召しを省略して、自分の意志の決断によって信じるということです。これは、神による赦しがなぜ必要なのかを分からない状態でイエス・キリストを信じるということです。このような意思による行為から出て来る信仰は、義と認められる信仰ではないのです。義と認められる信仰は、まるで乞食の様にキリストの義を求める者と同じです。自分のどんな行いによっても、自分は正しいとされないことを徹底して悟って、神の恵みによって不義が覆われるのを渇望する霊的特徴がなくてはなりません。

 

 

 

 

  

 

 

12.養子

 

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 (ガラテヤ445

 

 

 

 

 

 

 神さまは義と認められた全ての人に、養子となる恵みに参与するように許可します。(エペソ15、ガラテヤ445。この恵みによって、神と敵になっていた私たちが神と友となります。(ローマ510。それによって私たちは、神の怒りの対象ではなく、神の恵みの対象者となったのです。養子になるというのは、神の子供となる権威と特権を意味します。(ヨハネ112。神さまがキリストの故に子供の地位を付与なさるのです。

 

信者は神の家族の一員になります。(ガラテヤ610。父なる神さまの愛の中で、保護を受けながら養育を受けます。このような保護は、永遠に持続されるのです。もちろん父から懲らしめを受けます。しかし、いつまでも見放してはおられない。(哀歌331)。このように養子となれたのを聖霊様が証しします。そういう訳で、聖霊を子としてくださる御霊だといいます。(ローマ81516)。恵みの御座の前に大胆に出て行き、神をアバ、父と呼べるのです。そして、神の子どもになったので、相続を受けられます。(ローマ817。永遠の救いの相続人となり、約束のものを相続として受けます。(へブル612)。

 養子となった初実は、律法と罪と世の奴隷から自由になるのです。(ヨハネ83236)。律法は、私たちが完全に守らなければ罪に定められると告訴し、呪われると言います。堕落した人間は本質上神の家族とは無関係な悪魔の子供達で、怒りの相続人たちです。従って悪魔の支配にいながら、あらゆる汚れたことを行い、罪を犯すしかなかった存在です。罪の奴隷となった状態でした。神の恵みを受ける前には、この世の奴隷となった状態でした。この世が私たちの腐敗性に向かって誘惑すれば、私たちは罪を犯した者で、この世が私たちの感覚を誘惑すれば、私たちの肉的な腐敗性は、最も大きく膨れ上がり、結局罪を犯しました。しかし今、神の子供の一因となり、神の聖なる御心が心を支配するので、世を克服できるようになりました。神の養子となれたのは、神に礼拝し、神に仕えるのに自由になりました。神の戒めを守るのが過去には重く、難しい事でした。罪の奴隷状態だったからです。しかし、養子となったことで、神の戒めを守る事が難しいのではなく、面倒な事ではなく、楽しい事になりました。なぜなら、子供として家族の父である神を愛する心で一杯になったからです。(Ⅰヨハネ53)。

 

 養子となった二番目の実は、恵みの御座に大胆に出て行けるという事です。神さまは愛する者たちを呼んで、ご自身のそばにおらせます。家庭で父が家族を愛する時のようになさいます。それで子供たちが心を開き父に話をするように、私たちが神に求めるようにさせるのです。私たちは神の特別な摂理に注意を払い、神の特別な摂理を味わうようになります。養子となった者に、必要な物をすべて供給なさる神の恵みを味わうのです。神さまは、ご自身の子供になった私たちが何を必要とするのかを良くご存知です。それで恵みを与えることを惜しまないで、豊かに与えてくださるのです。養子となった者は神の恵みによって、喜びが満ちます。そのような神の愛について、養子となれた者は神を敬います。(マラキ16。そして子供が父の言葉に従順するように、神に従順します。いつでも神の御心に自分の願い事を屈服させます。(マタイ2642)。

 

 養子となった三番目の実は、キリストの威厳に参与するのです。キリストの三つの職務に参与しながら、大祭司、預言者、王の職務を担うようになります。(黙示録16。大祭司と同じように奉仕をし、祈りによって大祭司の職務を担い、愛によって救済し、神さまが喜んで受けてくださる供え物を捧げるのです。(ピリピ418。預言者としてキリストの幸いな教理を教えるようになります。王の職務を遂行するのは、敵たちと義なる戦争を意味します。この世と罪と悪魔たちに戦争を布告し、それらに克服するのです。(ゼカリヤ1035)。

 

 信者の養子となれたのは、世の人たちは中々認識できないものです。養子となった栄光についても理解できません。しかし、世の人たちは、養子となった者たちがこの世に縛られて生きないくらいは理解します。信者たちの生きる方式が世の人たちと同じでない程度は知っています。養子となった者たちは、神を父として受け入れ、恩恵を味わい、世の人たちの生活と区別されるからです。従って私たちは、養子となれたしるしなどを、世の人たちにはっきり現わさなければならないのです。

 

 

 

 

 

13.聖化

 

もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。しかし、もし御霊によって、体の行ないを殺すなら、あなた方は生きるのです(ローマ813

 

 

 

 

聖霊の有効な御業によって神の子供になった者たちの内面に、新しい心と新しい霊が創造されました。心と霊が更新され、霊的理解力が回復でき、意志が回復されました。これは、聖霊の強力な御業によるのです。更新された意志によってキリストをつかみ、主と結合されました。キリストとの結合よって義と認められ、養子となる恩恵も味合うようになりました。そしてキリストの中で清められたことを「決定的聖化」といい(Ⅰコリント12参照)聖なる生活を生き始めたことを「漸進的聖化」と言います。義認と神の子供となれたこと、聖化、全てがキリストとの結合によって得た恩恵であり、前の二つは信者の身分を現わすことであるが、聖化は実際的な変化を意味します。このように聖化が可能になったのは、聖霊の有効な御業によって聖なる性質を心と霊に植えさせておいたからであり、キリストの中にいるからです。

 

 聖化は、人の内面で実際的であり、質的な変化をいいます。(Ⅱコリント217この変化の効果は、初めから現れることであり、漸進的に完成に向かって行きます。義認と聖化は区別されるが、キリストの中で味わう恩恵なので、義認があれば必ず聖化は始まります。また、初めから質的な変化によって現われるから、その魂が真に義と認められたのか、聖化を通して確認してみることができます。へブル1214節では、聖化がなければ救いはないのだと語っています。

 聖化は神の形に向かう実際的な変化です(エペソ42224)。義認が罪責から自由を得たとするなら、聖化は罪の支配から抜け出て神の形に回復することだと言えます。聖化は実際的で、質的な変化によって性向の変化を含め、全人格に適応されます(Ⅰテサロニケ513。聖化を二つの部分に分けて説明出来ますが、罪を殺すのと聖なるものを追求する事です(ローマ856。第一に、罪を殺すのは、罪を無くす作業です(コロサイ335。私たちが新生したとしても、まだ腐敗性が肉体に残っているから、罪性を殺して古い人が再び支配できないようにすべきです。第二に、聖なるものに従うべきです。つまり、神の形の回復です(コロサイ310。信者は神とキリストに最も献身し、聖なる性向が強化されるように努力すべきです。

 

 聖化は特権であり義務です。神様は人間の責務として聖化を要求なさいます。しかし人間の能力では成し得ないことなので、恵みをつかむようにさせるのです。主が「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と命令なさいました(Ⅰペテロ116聖でなければならないことを人間の責務として置きました。聖くなろうと真実に努力する者たちは、自分の力や能力で清められないことを悟り、キリストの中に留まり、恩恵と慈悲を頼るようになります。聖化を人間の責務としておっしゃっているのは、キリストの中に続けて留まるだけでなく、神の恵みを頼るべきである責任を教える為でした。

 

 信者がこの世で追及する聖化は不完全なものです。聖さを追求する者たちは決して自分の行為に満足できないのです。かえって霊的に不足なのを悟るだけです。このように聖化が不完全な理由は、私たちがまだこの世に生きていて、肉の中にいて、私たちの敵である悪魔が誘惑しているからです。そういう訳で、聖化を責任としておくことで私たちが霊的に傲慢にならないようにさせ、キリストの恵みだけを頼るようにさせるのです。自分の宗教的行いによって救いを確信し、満足するのは大変間違っていることです。

 

 聖化を成し遂げるための法則がありますが、これを従順の規範、信仰の法則または、聖化の法則とも言います。これは道徳法を意味します。主の戒めは聖であり、正しく、また良いものです(ローマ712。それで主の戒めを守るのが、聖くなれる方便になります。使徒パウロは聖霊に従って行うのが道徳法を守る事だと語りました(ローマ84。道徳法を守ろうと努力する中で神の形が回復できます。もちろん完全に守る事ができないので、主の恵みに頼って、キリストの中に留まらなければなりません。ですから聖化は人間の責任ですが、一方では聖霊様が主体となって成し遂げるのです。

 

 神様が私たちを救おうとなさる目的は聖化にあります(エペソ22526。神様が特定な民を救おうと予定なさった目的があります(エペソ145、ローマ829。救いの目的は、ただ罪を赦してくださり、神の裁きから救ってくださるだけではなく、私たちが聖なる生活を生きるようにさせる為です。それで、第一の人であったアダムが失われた神の形を回復させ、神の栄光を現わす為なのです。最もイエスさまは、実を通して信仰の真実性を調べると仰せられました(マタイ1233。つまり聖化を通して義と認められたかどうかが確認できるのです。ましてや完全でないといっても、聖化がなければ義認もなく、選びも無いのです。

 

 教会史の中では聖化に対する間違った教えが続けてありました。聖化が無くても義認さえあれば救われると言う者たちがいます。また、救いを得た者は恵みによって生きる訳で、道徳法を守る必要は無いという教えがあります。皆、道徳律廃棄論主義者たちが主張するものです。聖化が無ければ義認は無いのだから、このような教えは偽りであり、信者の生活を放縦にさせるものです。もう一方では、聖化をある幻的な体験として見る教えがあります。幻的な体験を通して、罪を殺したり、決して聖なる生活を生きられたりはできないのです。ただ、聖霊の御業によってだけ罪を殺したり、聖なる生活が可能です(ローマ813)。

 

 

 

 

 

14.牽引

 

 

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです……

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。(ピリピ16212

 

 

 

 

 

 

聖霊の有効な召しによる信仰によってキリストと結合され、義と認められ、キリストの中でキリストの恩恵を味わう者は究極的に堕落することが無く、最後まで確実に守られ、永遠に救いを受けます(ヨハネ102829、Ⅱペテロ120。真の信者が確実に守られ救いを受ける理由は、神の変えらない選びによるからであり、始められた恵みを完成するまで施すからです(ピリピ16。そして聖徒の牽引は、キリストが選んだ者のために死なれ、その魂のために今も生きておられ取り成しをしてくださるから可能です(へブル725。つまり、キリストと結合してキリストの恩恵を続けて味わうから、最後まで信仰が保たれ牽引されるのです(ユダ24。聖徒の牽引は恵み契約の属性によるのです。恵み契約は神様が選んだ者たちに救いの恵みを施し、その民を見守り、彼らをキリストの中に留まらせるのを意味します。それで真の神の民は堕落せずに、最後まで保たれるのです(イザヤ5410)。

 

 聖徒の牽引教理は、神の主権的な恵みを確かにするもので、神の主権を言いながら、人間の責任を排除する教理ではないです。始められた恵みを完成させるまで成し遂げると確かに約束しているが(ピリピ16もう一方では、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とおっしゃっています(ピリピ212。人の責任を確かに語っています。ユダ書1節には召されたものは、イエスキリストのために守られていると語っているが、3節では聖徒たちが共に受けている救いのためにあらゆる努力をして戦いなさいと語っています。使徒ペテロは、召されたことと選ばれた者たちにその召しと選びを確かなものとしなさいと語っています。そのようにすれば、イエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられると語っています(Ⅱペテロ11011)。聖徒の牽引が神の主権的な恵みによるけれど、人の責任を排除していないのです。人に責任を要求するのはそれを完遂する力が人にあるのではなく、聖徒の牽引のためにもがき労苦する時、自分の力不足と無能を悟ることができるからです。自分の力で牽引するのができるのではなく、ただキリストの中にある恵みによって可能だというのを悟るようにさせます。それで牽引のために労苦すく信者は最もキリストの中に留まり、恵みに頼るのです。このように信者がキリストの中で恩恵を頼る時、主は彼らを、終わりの日に主の御前に大胆に立つことができるように牽引なさるのです(ユダ2425)。

 

 聖徒の牽引という恵みはこれほど重要で大切です。しかし、ある者たちは、真の信者も堕落することができると主張します。このような主張は、自分の意志を持ってイエスを信じようとした者たちが結局自分の意志によってイエス信じるのを放棄することができるという前提から出たものです。つまり、彼らが言う信仰は、真の救いの信仰でなないのです。救いの信仰を持っている者たちは、前で研究したように堕落もせず、最後まで牽引されるが、偽り信仰や一時的信仰を持った者達は堕落することができます。聖書では確かに堕落について教えています。このように堕落した者たちは初めから救いの信仰がなかった者たちです。しかし、まるで救いの信仰と恵みの姿をしていたが、その心と霊の中に恵みが無かったので、最後まで行かれないで、結局堕落してしまうのです(Ⅱペテロ22022)。

 

 堕落の事例の中には聖霊の賜物を所有したが堕落する場合もあります。へブル書646節で、このような場合を語っています。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」この本文で、堕落した者は、聖霊の賜物を所有し味わった者です。このように賜物を所有し味わったこと自体が救いの信仰を証しするのではないのです。聖霊の賜物は聖霊の一般的な働きとして未信者も持つことができます。サウロ王が賜物を所有したが救いの恵みは有りませんでした(Ⅰサムエル1523。イスカリオテ・ユダもやはり賜物を持っていたが堕落してしましました(使徒125。従って聖霊の賜物を所有し、その味を見たとしても、その心と霊の中に救いの信仰がなく、結局は堕落してしまったのです。

 

 真の信者だと言っても、この世とあまり仲良くし、恵みの手段などには疎かにし、深刻な罪を犯したりも、しばらくそのような状態に陥ったりもします。ヨブは神に向かって、正しくないと抗議しました(ヨブ408)。ダビデは重大な罪を連続して犯したりもしました。ペテロもやはり主を3回も否定しました。信者だと言っても疑いと絶望の状態に至ったりもします。しかし、その心と霊の中に植えられた恵みの原理は決して完全に無くなったりしないのです。霊的に無気力な状態に陥ったりもしますが、その心と霊の中に恵みの原理は残っています。そうであるから主が、残っている恵みを再び新しくし、霊的回復と更新を成し遂げるのです。このような霊的更新は、聖霊の有効な御業と同じようなものです。その魂によってもう一度完全に悔い改めさせ、信仰を回復させる更新、つまり新しくさせるのです。このように聖徒の牽引教理は真の信者に望みを与えます。自分自身に霊的力が不足しても、キリストの中で最後まで牽引なさる恵みによって望みを持てます。そして、険しい世の中で、信仰を守るのが難しい立場でも慰めを受けます。これは、救いという幸いな教えです。

 

 

 

15.救いの確信

 

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ83839

 

 

 

 

 

真の信者はキリストが施した恩恵による実を確認し救いの確信を持つようになります。そのような確信は、自分は間違いなく罪の赦しを受け、聖なる生き方に導かれている生活と天上に確実に昇ることができるのを含めます。イエスさまを真実に信じて、愛し、新生した良心に従って神の前に正直であり、人々に義なる生活を追求する者はその良心に咎めがないでしょう。そして自分は恵みの状態にいるという確信も持つようになります。使徒パウロは、コリント教会に向かって、本当に自分に救いの恵みがあるかを自ら点検しなさいと語りました(Ⅱコリント135。パウロがこのように勧めているのは、救いの恵みが確かなら、生活の中に証拠が確かになるからです。また、心と霊にある恵みの証拠は自ら確認することができるからです。

 

 救いの確信は、神様が約束なさった御言葉を根拠にします。使徒ヨハネは、戒めを守っているかどうかで、救いの確認をしなさいと語っています(Ⅰヨハネ24。そして罪を無くそうと努力する姿によって救いを確認するように語っています(Ⅰヨハネ36。真に新生したなら神を愛し、新生した兄弟を愛するのかを点検しなさいと言いました(Ⅰヨハネ513。聖書は自分の救いを点検し、確認しなさいと命令しています(Ⅱコリント135。聖書は真の信者のしるしと属性を確かに語っているので、確認することができます。イエスさまは真の弟子のしるしとして、自分を否定し、自分の十字架を負ってわたしについて来るのだと語りました(ルカ1427。このように聖書で具体的に語られているのを根拠にして自分に救いの信仰があるかどうかを把握することができ、それらを通して救いの確信を得ることができます。

 

救いの確信は、聖霊様が信者の内面に神の子供だと証しすることから得られます。聖霊様は既に信者自ら神に向かってアバ・父と呼べるようにさせ、聖霊様自ら私たちの霊と共に私たちが神の子供であることを証言すると語っています(ローマ81516。聖霊様が、神の約束の御言葉を私たちに適応させ確信が起こるようにさせます。このことを、恵みの内的証拠と呼びます。このような確信は信者たちの霊的経験を通して立証されます。 

 

 聖霊様が、私たちの霊魂の上に働かれるので私たちの人格に変化が起こった恵みのしるしがあります。罪を憎み、痛哭し、聖と義に対して渇望が大きく起きたのなら、それは私たちが新生した者という、つまり、救いの確信が起きたのです。救いの確信は、神の恵みが私たちの心と霊に、ある変化と効果を与えたのかを確認しながら起こるのです。もし、自己点検の中で、自分の救いに対して確信することができなければ、恵みの手段を持って神に叫ぶべきです。聖霊の有効な御業が自分に確かにあるように求めるべきです。これは神様が定めて置いた方式です。

 

 もちろん真の信者だといっても、救いの確信が弱かったり、苦難と艱難を経験しながら、救いの確信を失ったりすることもあります。時には、良心に逆らうことを続けて行う事で、良心に害を与え、救いの確信を失ったりもします。肉体の病と、誘惑などに露出されることで救いの確認が弱まったりもします。又神の懲らしめによって救いの確信を持てなかったりします。しかし、救いの確信が弱まったり、失ったりしたとしても、救いを失ったのではないです。信者の心と霊に、恵みの性向を失っていないからです。このような場合、恵みの手段を一生懸命に使用し、救いの確信を回復すべきです。聖書を一生懸命に読んで、神の御言葉を聞きながら、熱心に祈るべきです。

 

 自分の召しと選びを確かにすることで、救いの確信を持つ者は、敬虔の実が自分の生活に結ばれるように恵みの手段を一生懸命に用います(Ⅱペテロ1511。そして罪を避け、聖を追求します。特に、患難な時にキリストと自分の関係をどんなものも引き離すことができないと確信し、キリストを最も頼ります(ローマ83839。結局救いの確信は、キリストとの結合を通して味わう恩恵の中の一つです。

 

 救いの確信を得るために人間的な方法を使用してはなりません。自分が救われたという考えを続けて、救いの確信を持つ事、これは、自分の考えによる確信であって、聖霊の御業と御言葉を根拠にした確信ではなのです。間違った確信は、感情と雰囲気によって変わり、揺れるのです。救いの確信のための人間的な方式は、恵みを根拠としていないから持続性がありません。ただ神様が定められた手段によって、救いの確信を得ることができます。

 

 

 

 

 

 

16.聖定

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ145

 

 

 

 

 

 

神の聖定は選びと遺棄として構成されています。神様はある人たちは救おうと選び、又一方では永遠の死に至るように定められました。このような神の聖定は永遠の昔からです(エペソ14。しかし、神様が実際的に適応させる以前までは、私たちは知り得ないし、定められたその御心を全部理解することはできなのです。ただ私たちが知りうるのは、この聖定が、神様が値なしに与える愛を証しし、他の一面では、神の公儀を現わすという事です。そして神の聖定は、創造主と被造物とを区分する教えです。ですので、神の聖定について不平を言ったり、可否を言ったりしてはなりません。もっとも新生していない者たちは理解できない教理だから、人間的な判断をしてはなりません。

 

 神の選びは神に属している知識なので、人が接近したり、つまり人の理解力で知り得たりする領域ではないのです(申命記2929。聖定教理、特に選びについて語る時、それの実際的実行である聖霊の有効な御業に注目すべきです。聖霊の有効な御業によって信仰が発生し、キリストを信じ、キリストに結合し、義と認められ、養子となる恩恵を味わい、聖化の恩恵を味わう時、ついに彼が選ばれた民だというのを知ることができるのです。使徒パウロはピシデヤのアンテオケで福音を伝え、その聴衆の反応を通して彼らが選ばれた民であるのを確認しました。「異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。」と語りました(使徒1348

 

 神様が選びの手段と共に、目的も定めたが、それは直ちに聖であります(エペソ14。選びの実行によって、聖定された民に表れるのがありますが、それが直ちに聖化です。従って聖定されたと言いながら聖化が表れない人は、自ら自分を騙しているのです。真に選ばれたなら聖化によってそれを証しなくてはなりません。なぜなら選びの目的が聖化にあるからです(ローマ829

 

 そういう訳で、聖定教理、特に選びの教理は、信者の救いにあって、その原因をただ神にだけ帰すべきであるのを確かにする教えです。罪人に恵みを施して救いがあるようになさったが、それは神の選びのゆえです。だから、聖定教理は信者によって全ての救いの恵みが神から来ているのを認め、感謝するようにさせる教えです。従って、自分が真に選ばれた民であることを確認したいと願うなら、聖定の手段によって自分を点検し、聖定の目的である聖化が自分にあるかどうかを調べればよいのです。

 

 聖定教理のもう一つの部分は、遺棄に対する教えです。遺棄を教える目的は、神の恵みの手段の下にいたけれど、それを乱用し、恵みの手段に適応を受けなかった者に対して説明をする為です。エサウの場合、長子の権限を持っていたが、それを安っぽく扱い、煮物一杯で売ってしまいました。遺棄された者の代表的な例です。遺棄された者は、恵みの手段の下にいながら、罪に対する覚醒もあったがそれを消滅させます。一時的に霊的覚醒が起きて恵みの姿をしていたが、その心と霊に真の恵みが無くて、結局、堕落し背教する者たちに対する説明です。従って遺棄教理は真の信者に警告の機能をします。恵みの姿の中にいながら、それを乱用したり高ぶったりしてはならないという警告の教えです。

 

 遺棄教理にあって、選び教理と同じに遺棄された者のようでも、浅はかに判断してはなりません。選び教理にあって、聖霊の有効な御業が現れるまで判断を留保するように、遺棄教理にあっても、堕落と背教が現れるまで遺棄された者として判断することができません。なぜなら、神さまはどんな悪な罪人でも悔い改めさせられるからです。ただ、堕落と背教が現れれば、それ以上悔い改めさせ、聖くすることができないので、彼は遺棄された者と判断することができます(へブル66。このような遺棄教理は、神の公義を最も確かにする教えです。神の恵みの手段の下にいながら、それを乱用し、信仰があるかのように偽り、結局は邪悪の甘さによって堕落する者たちに対する神の裁きを説明する教えが遺棄教理です。

 

 にも関わらず、この書の最後のところで聖定を扱うのは、あなたに今まで話した恵みがあるなら、それは完全に神の主権的恵みから出たもので、あなた自身のどんな功労や行いによるのではないという事実を確認させる為なのです。それは、神様があなたを救うために選びによって起きたというのを、もう一度確認させる為なのです。従ってあなたはこのように恵みを施して下さった神の恵みを賛美するべきです。

 

 

 

 

 

  

17.死と最後の裁き

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(へブル92728

 

 

 

 

 

 

 キリストがこの地に再び来られる前に、この世に生きる全ての人生は、死を迎えるようになります。人生が死を迎えながら裁きを受け(へブル927、キリストが再び来られるとき、全ての人は復活して最後の裁きを受けるでしょう(使徒1731。死は罪によってすべての人類に下りました(ローマ512。敬虔な者に臨まれる死は、神の愛のしるしであり、労苦の惨めさから安息を味わうことであり(黙示録1413、死を通してそれ以上罪を犯せなくなる栄化の状態の始まりです(ローマ67。しかし、悪な者に下る死は神の怒りであり(エゼキエル338、罪の結果による神の裁きです(ルカ1220。もちろん、敬虔な者の魂はキリストと結合し、楽園でキリストと共に住むので(ルカ2342、ピリピ123天の栄光の始まりにいるが、悪人の魂は永遠の苦しみに入るのです(ルカ162223、伝道書113

 

 死を迎えながら、神様はその魂に即刻に祝福、又は呪いの宣言がされるでしょうし、その魂はそれを知るようになります(へブル927。また、その魂は神の力によって、また天使たちによって、即刻に幸せな状態に移されるし、又は惨めな状態に移されるでしょう。そしてその状態から復活の時までいるでしょう(ルカ16222326、伝道書113

 いつか、この世の最後の日に至るでしょう(Ⅰコリント510。聖書ではこの世の最後の終わりの日に起こる兆候について語っています(マタイ223233。全世界に福音が伝わり、背教が飽きるでしょう(Ⅰテモテ41。反キリストが現れるでしょう(Ⅱテサロニケ110。ノアとロトの時代のように人間の腐敗が社会全体に蔓延するでしょう。また、戦争が起こり、偽預言者たちが偽奇跡を行い、ユダヤ人が福音を受け入れ、天と地には不思議が現れ、太陽と月が暗くなることが起こると語っています(Ⅱペテロ37、マタイ230。このような兆候があった後に、キリストがこの地に再び来られる時天の雲に乗って、栄光の中で御使いと共に裁き主として来られるでしょう。キリストが再臨なさる時、神の力のよって死んだ者たちが再び自分の体を着て生き返るでしょうし、生きている者たちは体の変化を受けるようになるでしょう(ヨハネ528、マタイ2431、Ⅰコリント1552

 

選ばれた民は復活の体を着て起きるでしょうし、遺棄された者も体を着て監獄から出て、キリストの裁き台の前に立つでしょう。その日に、キリストの前に置かれている命の書が開かれ、救いを受けた民が全ての人々に知らされ、正しい者たちと宣言されるでしょう。これは彼らの行いによってではなく、キリストの恩恵を最後まで頼り、真の信仰の中にいたからです(ガラテヤ57。しかし悪人たちには罪の定めの宣言があるでしょうが、彼らはキリストを拒否しただけでなく、敬虔でも無く、神の戒めを破り、徹底して自分の欲望のために生きて行ったことに対する正しい宣言です。

 

 キリストが裁きをなさる時、神の選ばれた民は、神の栄光ある国を所有し、神の御前でキリストと聖徒の永遠なる交わりの中にいるようになります。しかし、遺棄された者は一番暗い所に投げ落とされ、終わりのない苦しみと、恐れの中で、歯ぎしりをし、泣き続けるでしょう。彼らは苦しみの中で死ぬこともできず、抜け出ることもできません(マタイ2530

 

 死と最後の裁きについて聖書の教えは、真の信仰を持った者たちにとても有益なものです。これは聖徒たちに、この世の幸せを追求すべきでなく、永遠なるものを探し求めるようにさせます。この世にあるものは一時的なものであり、聖徒たちに真の満足を与えてくれないものです。

 

かえって世の一時的な満足に心を置けば、敬虔な生活を生きることができなく、貪欲な生活を生きるようにさせます。そしてこの教えは苦難と逆境の中にいる真の聖徒たちに、この地の生活が一時的であり、永遠のものが最も重要であることを知るようにさせます。そして苦難の中にいるが、聖徒たちに忍耐をさせ、ほかの世を待ち望むようにさせます。最後の裁きについての教えは、この地でキリストのために労苦し、頑張った聖徒たちに安息と光が弱まらない永遠なる国を下さると語っているので、信仰の労苦と敬虔な生活を追及させます(使徒241516。なぜなら、私たちの全ての行ないが最後の裁き台の前ですべて現われるからです。なので、キリストが来られる時、真の聖徒は恐れおののくのではなく、新郎を迎えに出る新婦の様に、喜びの中で出て行くでしょう。

 

 

 

 

 

あとがき

 

 

 

 

 

救いの方法は、三位の神さまが選んだ民に、救いが有効になるように働かれる原理を言います。父なる神が創造の前に救おうとする者を選ばれ、キリストに贖いの働きを完遂させ、聖霊を通して御子が成し遂げて置いた贖いの働きを適応させます。今日も選んだ民に実際に救いが起こるようになさるのです。これは真に驚くべきことであり、強力な御業です。

 

真の救いのためには、救いの方法を知り、自分自身に三位の神さまの贖いの働きがあるのかを確認すべきです。救いの方法について知識を確かに持ち、聖霊の有効な御業を経験しなくてはならないでしょう。そして、自分の救いについて変化された生活を証しなくてはならないでしょう。それは、神の栄光を現わすことであり、私たちを救った目的です。