この時代の甘い福音を警戒しなさい


  失われた福音 
     
 
      
      
      
      
      
      
      Walter J.Chantry 著者  李 ヨンボク 翻訳
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      私がこの本を書く時、三人の人が私に大きな助けを与えた。
  彼らの親切な労苦と助言について感謝する。彼らは次のようである。

     ある大工、彼は私の霊的父であり、最高の信仰的先生である。
             ある商人、彼は私の短い牧会の期間の間に
        私たちの教会を監督する仕事を私と共に誠実に担った。
あるアラブ人、キリストに対する彼の愛と、霊的共同体のための献身の
ゆえに、この地で、旅人の人生を生きる私の喜びは、一層大きくなった。










導入

あなたが信じる福音は
本物なのか、偽物なのか。



   福音主義者たちは、自分たちの教会と宣教機関に何の問題がないとは考えていない。派手な宣教報告書と驚くほどの統計数字の裏には、教会の伝道能力が弱いという認識が根深く根を下ろしている。教会の指導者たちは、信者たちを喜びと勝利の雰囲気に導こうと熱心に努力しながらも、信者たちの現在の体験と努力の結果に不満があるので心が落ち着かない。
 今日教会の中で、私たちは「伝道がうまく行っているのか。」また「リバイバルは起きるだろうか」という質問を聞くことができる。過去どの時代より宣教師たちは今増えている。過去どの時代より今伝道運動はより活発に起きている。個人伝道のために研究し、心を配るクリスチャンは過去より多くなっている。伝道の働きが劣っていることについて、原因と解決方法を真剣に研究しようとするセミナーも過去より多く開かれている。
 何日前、165個の宣教団体と55個の学校がアメリカイリノイ州フイトンに集まり「教会の世界宣教に関する会議」を開いた。そこに集まった代表者たちは宣教を妨げる障害物をどのように克服できるのかについて論議した。この大会直後に100個の国家から来た1,300人の代表者たちがドイツ・ベルリンに集まり、宣教大会を開いた。彼らはこの大会が世界的な伝道爆発の喜福剤になることを切に願った。その後、多くの人たちは福音伝道の問題を検討し伝道の火を付けるためにアメリカ・セイントルイスに集まった。これと似たような大会などもその以降も続けて開かれた。
 にも関わらず、教会と宣教師たちはどんどん当惑している。分析し評価し祈り望んだ次にも宣教機関などは動力を得られないでいて、罪人たちは大規模にキリストに立ち返ることは起きていないでいる。それで、今なおこのような質問が投げかけられている。
 「私たちの福音伝道に何の問題があるのだろうか。世界をキリストに導くためには何が必要なのだろうか。ゾナサン・エドワーズやジョージ・ホウィットフィールドを通して現われた神の力がなぜ今は現れないのだろうか」このように福音主義者たちが、今日の福音宣教に神の力が臨まれるように誠実に努力するが、事実彼らは重大な過ちを犯している。神のみことばを信じる人々も自由主義者たちと同じように皮相的な解決策を握ろうともがいている。神の人々が「福音が社会問題にどんな意味を持っているのか」。「教会が知的に社会的に尊敬を受けているのか」。特に「教会の連合はうまく行っているのか」などの問題に、過ぎるほど掴まれている。彼らがこのような問題にそれほど執着するのは、それらが解決できれば、教会が活力を取り戻せるだろうと考えるからである。

 私たちに必要なのは真理なのか、連合なのか。

 今日の教会はこのようにつぶやく
「聖書を信じるクリスチャンたちが、皆、ひとつに固まるのなら、この世はすぐに立ち上がって私たちに耳を傾けるでしょう。私たちにあるあらゆる宣教委員会を一つに統合させて、私たちの宣教資金と宣教人力を一緒に使いましょう。福音主義者たちが福音伝道のために共同の機関を作れば、最も効果的な仕事ができるでしょう」。
 それのゆえ、今度、機関などの結合が福音主義教会などの目標になった。ところが、結合が世界宣教のために最も重要だという立場を受け入れた教会と信者たちは、相対的に真理の重要性を軽視するようになった。そして、色んな機関などの体表者たちが集まった大規模宣教大会で、福音主義的信仰を持っている兄弟を不愉快にさせる神のみことば、ある側面を主張するのが難しくなってしまった。そのような大会で新生したクリスチャンであれば、誰でも同意できる最小限の共通教理だけを主張しなくてはならなくなった。そうでない場合は、論争が起きるしかないからである。
 従って、このような最小限の共通教理を除く、聖書の残りの真理などは宣教のゆえに「非本質的なもの」と扱われるまでに至った。このような雰囲気の流れによって、今はクリスチャンたちの間の結合が教理的正確性より本質的なものとして思われるようになった。
 このような雰囲気のせいで、宣教会などは、みことば宣言の根本的問題を深く検討するのを避けるようになった。宣教委員会たちは「福音とは何か」という質問に答えるのをためらっている。なぜなら、この質問に真剣に答えるというのは自分たちに所属されている宣教師たちの中、多くの人たちの働きを批判することを意味するからである。
 この質問に対する的確な答えを持ち出すなら、この質問に対して互いに違った見解を持っている教会の連合体である宣教会を崩すことになるからである。もし、ひとつの教派の立場を受け入れるなら、五つの他の教派などの支援を失うことになるからだ。連合と共通教理の土台の上に建てられた宣教の働きのシステムが崩壊するようになるからだ。
 今日、「多くの教会などが、真理の問題を真剣に扱わなくなった。なぜなら、教団や協会などとの円満な関係が壊れるかと恐れているからだ。福音に対する厳密な定義を固執するなら、十代などを相手に働きをする団体と葛藤を起こすようになるかも知れないからだ。教会学校プログラムを非難する結果を生むようになるかも知れないからだ。福音の内容に余り多くの関心を注いでしまうと、他の福音主義者たちと不和するようになるし、結局成功の鍵だと信じていた連合が崩れてしまうからである。

 伝統という俗鎖に縛られている福音伝道

 福音主義者たちは、宗教改革の遺産を大切にしている。私たちはローマ・カトリック迷信の背骨を壊してしまった、ルターのような宗教改革派たちの伝統の上に立っている。聖書、つまり神の聖なるみことばがすべてのことに置いて私たちの案内者になっている。私たちは聖書でないどんな人間の権威にも屈服しない。
 このような精神は、神に忠誠でなければならないという正しい哲学から出た当然な主張である。しかし問題は、「ただ聖書」という原理が実際に適用できるより、ただ「良い意図」に終わらせる場合がしばしば起こっている。プロテスタントの福音主義陣営にも聖書的根拠でない教理と慣習があまりにも多い。福音から出た教訓と慣習だと知られている中の多くのものが、人間の伝統やアイデアから出た。まるでTeizel(1465~1519,トミニク会所属の修道士として免罪符を売った)の免罪符のようにということばだ。私たちが受け入れているある教理などは、免罪符ぐらいに危険なものだ。
 「救いの方法」というとても重要な問題で、今プロテスタント教会の多くの教派は新伝統主義に陥ている。なぜなら彼らは非聖書的な伝道方法を受けついてそれを使用しているからだ。しかしこのような非聖書的伝道方法の歴史はそれほど古いものではない。現在、私たちの非聖書的メッセージと伝道方法は、宗教改革派たちと彼らの信条から出たものではない。それらは最も最近のものである。最も悪いのはそれらが聖書から出て来たのではない事なのだ。間違いなくそれらは非聖書的解釈から出て、また、現代の理性を神の啓示と勝手に混合したところから出た。
 その結果、現在私たちは知らないうちに危険な伝道方法を使用している。異端たちは聖書の箇所を巧妙に引用して半分の真理を全体真理かのように主張しながら人々を騙している。サタンも初めからこのような戦略を使用した。(創3:15参照)。サタンはこの時代に「ほかの福音」を宣伝し、ましてや誠実な人々を利用して「御座から追い出されたキリスト」を伝えている。現在、残念なことに救い主のしもべたちまでも、その方の栄光を見れないでいるが、それは彼らが神のみことばに根拠した福音にそれ以上注目していないからである。
 しばしば私たちは、現代の福音伝道が作り出したものからキリスト教の悲しい姿を見ることができる。現代クリスチャンたちは信仰を告白した後に世の人たちのように生きている。簡単に申しますと、「キリストを受け入れる決断」はあまり意味がない。「キリストを受け入れる決断」を下した人々の中で、少数だけが自分の変化された生活を通して神の恵みを証しする。
 ここで少しだけ「キリストを受け入れる決断」ということばについて調べることにしよう。罪人がクリスチャンになるためには罪を捨て、救い主を信頼するという決断をしなければならない。悔い改めと信仰は人間の意思の内的行為である。しかし伝道集会で説教壇の前に出て、自分の罪を告白し、人々の前でキリストを救い主と受け入れる祈りを捧げるのが、必ずしも悔い改めと信仰のしるしではない。この本で、「キリストを受け入れる決断」ということばは、伝道集会で見ることができる、このような外形的行動を指す。残念ながら多くの福音主義者たちがこのような外形的行動を見て、キリストを受け入れたと錯覚する。しかし私たちはこのような外形的行動をした人たちがキリストに従うという内的決断に至ったのだと軽く断定してはならない。

 組織的運動の興奮が静まった時、胸が躍っていた聖歌隊の賛美がそれ以上聞こえなかった時、大規模の群衆がそれ以上集まらなかった時、キリストを受け入れなさいと熱情的に叫んでいた福音伝道者が集会を終えて他の都市に行ってしまった時、まことに永属的であり、本質的なものが私たちに残っているのか。ある都市を伝道しようとする計画に従って、その都市の家々をいちいち訪問してから私たちに残ったのは何があったのか。正直に言うなら、残ったのはほとんどない。騒がしい音と劇的な興奮はあったけど、罪人たちに恐れを与え回心に至るようにさせる神の力と恵みは臨まれなかった。
 しかしこれらすべては伝道する時、宣言される非聖書的メッセージと関連がある。命の真理が、人間が作り出したものなどの煙幕にふさがれて見えない。人間が作り出した皮相的論理を信じる人は、永遠の命を主張できる権利を得たと錯覚する。彼らの確信は間違っている。このような確信を持っている人たちがどうしても増加するが、それは福音主義者たちが曲解させた福音を伝えるからである。信仰相談室で「キリストを受け入れる決断」を下し、「これであなたの罪は赦されました」ということばを聞いた多くの人たちは、将来、主から「わたしは、あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」(マタイ7:23)ということばを聞いてびっくりするようなことになるでしょう。Teizelの免罪符を購入した人たちのようにだ。
 今この本を読んでいるあなたは信仰の先輩たちから伝道方法を教わり現在それを使っているでしょう。そしてあなたは自分の方法が正しいと信じているでしょう。だけどあなたは、熱心に働く教会が違った方法で熱く伝道するのを見ていないから自分の伝道方法に疑問を提起しないのです。もちろん、よりもっと正確な伝道方法論を知っていると主張しながら、罪人たちをキリストに導くために何もしないでいるのは間違っている。
 伝道に対する熱情がないのは確かに恐ろしいことだ。しかし熱情はあるが知識に従わないのも最も間違っている。もし、あなたも霊魂たちを間違って導いているのではないのか。他のクリスチャンたちの労苦を無駄にしてしまっているのではないのか。自分自身のメッセージと伝道方法を神のみことばに照らして綿密に検討してみたのか。
 愛する者よ、今私はくだらない質問をしているのではないよ。回心したと言いながら過去のように相変わらず肉的な状態に留まっている人たちを見て疑問を抱いたことはないのか。
 「キリストを受け入れる決断」をした人たちを見なさい。あなたは果たして彼らが何のために決断をしたのかわからない。彼らは自分たちが信じると告白した救い主とは違って清くない。その方の大義のための情熱もない。神のみことばを学びもしない。みことばを聞かなくても全然差しさわりがない。まことの回心の証拠が彼らから見えて来ない。あなたは彼らが福音を全然受け入れていない可能性に対して深く考えて見たことがあるのか。あなたのみことば宣言と伝道テクニックが彼らに「キリストのない慰め」を与えたのではないのか。
 
 イエスさまの伝道方法は、現代の伝道方法とは異なる

 今日の教会などが、神のみことばの光に照らして救いの方法をもう一度正しく整理しなければ、福音主義的キリスト教は人間伝統の沼に陥って窒息してしまいそうだ。古い昔のローマ教会がそうだったようにだ。現在福音主義的キリスト教の多くの人々が悲しくも属鎖に縛られビクともできないでいる。教皇に従う無知な者たちがそうだったようにだ。確かに言うなら、福音を犠牲にしながら連合を追及するのは間違っている。
 私たちはイエスさまの個人伝道と使徒たちの色んな説教を分析することで福音を定義するのに大変助けを受けられる。この本で私は、マルコの福音書10章17-27節を研究本文として分析することにした。なぜなら、新約聖書の何処ででも発見できる福音伝道の本質的要素などがこの本文に含まれているからである。その本文に出るイエスさまと金持ちの青年の対話で覗けるように、イエスさまの伝道方法は、今日福音主義者たちの間に広く広まった伝道方法と克明に対照を見せている。
 イエスさまの福音と今日の福音の差は、微小な所から発見できないで核心的なところで発見できる。その差がどうしても深刻なので聖霊さまは悲しみ、私たちは空っぽの網だけを引き上げている。現代の福音は霊魂たちを永遠に間違ったところに導ける危険性を内包している。
 私がこのようなことばを言うと、一部の人たちは相対主義を言い訳にして逃避しようとするでしょう。彼らは神のみことばに照らして見た検討結果を回避するために「それはただ強調点の差だけだ」というでしょう。しかしそれはただ、強調点の差だけではない。なぜなら、キリストの福音と今日の大衆的な福音との差は、周辺的なところから発見できないで確信的なところで発見できるからである。互いに対照されるメッセージなどの差のせいで、霊魂が生きることも、死ぬこともし、教会が実を結んだり、そうでなかったりもする。
 真実なキリスト者は罪人たちを騙したりするのを望まない。まことの福音主義者は霊魂を愛する心があるので、いくつかの深い真理を罪人たちに提示する。にも関わらず、多くの福音主義者たちが福音の本質的な要素などを不知の中で除いてしまうので、彼らは自分たちが伝えようとする神のみことばのある部分を伝えないでいる。半分真理が全体真理かのように伝わるとき、結局それは非真理になってしまうからだ。
 あなたの教会、あなたの宣教師たち、あなたの福音伝道者たち、あなたの日曜学校の教師たち、そしてあなた自身は「イエスさまの福音」を伝えているのか。この質問に答えるのが苦しいと言っても、あなたは必ず答えなければならない。その答えが不便さ、葛藤、誤解、そして友達喪失をもたらすと言っても答えなければならない。なぜなら、神の真理をおろそかにすることで神を侮辱させてはならないからだ。福音の内容を正確に主張しようとする心がなければ、これ以上の情熱と犠牲と奉仕について話してはならない。「諸国に伝えるべき話は、直ちにイエスさまの話だ」と主張する考えをなくして、どうして福音伝道と宣教活動を続けられるのか。
 万世の最高の福音伝道者であったイエスさまを詳しく調べて見なさい。その方のメッセージに耳を傾け、その方の動機を調べ、その方の方法に注目しなさい。そうした後に、あなた自身の働きを検討しなさい。そうすれば西暦30年に生きた金持ちの青年から、今の時代の若者たちの顔を発見することができるでしょう。あなたがこの時代の若者たちを変わらせようとするなら、イエスさまが告げられたことばを彼らに話してあげないとだめです。神を喜ばせようとするなら、キリストが労苦なさったように私たちも労苦をしなければならないです。間違った福音主義伝統の属鎖を脱ぎ捨ててしまいなさい。根本的真理を売って連合という安っぽい品物を買う愚かな真似をしてはならない。聖書に出るキリストの伝道方法に従って福音を伝えなさい。本物の福音をつかんで偽福音は捨てなさい。
 導入

 1. 神の属性を失った  11
      愛の神だけを強調しないで、聖なる神を伝えなさい。
 
 
 2.神の法を失った  22
   十字架を提示する前に、罪を悟らせるみことばを宣言しなさい。
 
 
 3.神に対する悔い改めを失った  31
   主イエスに対する信仰とともに、神に対する悔い改めを促しなさい。
 
 
 4.神のひとり子に対する信仰を失った   39
   教会の中で,、慰めだけを受けようとする者に、十字架を負いなさいと要求しなさい。
 
 
 5.まことの救いの確信を失った  47
    回心者の数字を増やそうと努力しないで、神の働かれるのを見なさい。
 
 
 6.神に対する依存性を失った  56


人間の努力ではなく、神の力を頼るように教えなさい。

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
            マルコの福音書10章17‐27節
 
 
 
 
 
 1. 神の属性を失った
     

      愛の神だけを強調しないで、聖なる神を伝えなさい。
   
   
   
 
 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。マルコ10章17、18節

   
   
   
      
     
 こういう人が私たちの教会に来るなら!

 マルコの福音書10章17,18節に登場する若者をしばらく見るだけでも、私たちは彼が尊敬と信頼を受けられそうな人であったということを知ることができる。彼はさわやかな若者だった。彼は丁寧に礼儀を整えイエスに走り寄ってひざまずきイエスさまを「貴い先生」(マルコ10:17)と呼んだ。彼が見せた宗教に対する深い関心を見る時、私たちは彼を尊敬するしかない。彼は霊的助けを渇望したのでイエスに走り寄った。永遠の命を得ようとする渇望が非常に強かったので、彼はイエスさまと密かに対話を分かち合える機会をつかむまで待つことができなかった。彼は自分の霊魂の生きる道を探そうとする情熱に満たされていたので、大通りに並んでいる多くの人々の視線など恐れていなかった。
 最も彼は倫理を実践した人だった。イエスさまが彼に戒めなどを思い起させたとき、彼は「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」(マルコ10:20)と答えた。確かに彼の生活は綺麗だった。イエスさまが彼に「姦淫してはならない」(19節)という戒めを思い起させた時、彼は、自分は純潔な人だと言える人だった。イエスさまが「盗んではならない」(19節)という戒めを思い起こさせた時、彼は自分が正直な事業をしている人だと言える人だった。彼は人を騙して富を蓄積した人ではなかった。彼はいつも自分の父母を敬った。彼は軽く他の人を誹謗したりしなかった。彼はこのような誠実さがたまに現れたのではなく、最近生まれたわけでもなく、子供の時から彼は道徳的生活が習慣に固まった人であった。
 マルコの福音書10章22節によると、彼は莫大な財産を持っていた。彼はこの世でも成功した人だった。ルカの福音書18章18節によると、彼は「役人」だった。もう一度付け加えるなら、彼は権威と影響力のある貴族だった。マタイの福音書19章20節は、彼が「青年」だったと言うが、彼が若者としてあれほど成功したというのは本当に驚くことだ。彼は「本年度の市民賞」を受けるに不足がない人として感じられる。
 もし彼を伝道して信者にするなら、あなたは彼をキリストのための「勝利のトロフィ-」にしたいぐらいでしょう。彼がイエスさまを信じると告白しながらあなたの教会に登録するなら、あなたはとても喜ばれるでしょう。しかし、もし、あなたはこの世であれほど成功した人が神の国の拡張に貢献してくれるだろうと信じるので、彼に関心を持つのではないないでしょうか。もしそうだとしたら肉的な考えをしているのであなたは当然恥ずかしみを受けなければならない。
 とりあえずこういう人があなたに近づき永遠の命への道を聞くなら、あなたはどのように反応するのでしょうか。彼は天国に行ける法を教えてくれとおねだりするほど立派な人であった。このような人こそ福音伝道者たちが切に探している人であった。こういう人に会うとあなたは彼に聖書を広げ、読ませながらいくつかの重要な質問を投げるでしょう。「あなたは自分が罪人だと考えますか。キリストが罪人たちのために死んだというのを信じますか。その方をあなたの救い主として受け入れますか。私の跡をついて一緒に祈りましょう...」とです。あなたのこのような質問などに、彼は「はい」と答えるでしょうが、事実、福音についてほとんど学んだことがない状態で、そのように答えたのでした。あなたが彼に伝えてあげたみことばとは、伝道する時、誰もが使う、いくつかの聖書聖句がすべてであった。
 イエスに永遠の命への道を聞く金持ちの青年は福音について聞ける準備がよくできている人であった。だけど私たちは信仰相談室に尋ねて来た人に、ましてや、何分の間に決断を促しながら、そこに付け加え、その人に永遠の命までも確信を与える。その後彼は回心した人の名簿に名前が載り、彼の回心を全世界に知らされる。もし彼が聖書に出る金持ちの青年のような人であったなら福音主義的有名雑誌などに彼について記事が載せられるであろう。
 一方であなたは、イエスさまがあれほど柔らかい心を持った金持ちの青年に一言で簡略して仰せられるのを見た時、少し失望したのではありませんか。あなたは、「どうして主は、罪人を相手に、あれほど効果のない方法を使用なさったのだろうか、という考えになりませんか。金持ちの青年が永遠の命へ道を聞いた時、イエスさまは彼を叱りながら、他のことを聞けば良かったにも関わらず、十戒について語り、永遠の命を得るための驚く犠牲について語り、結局「魚」が網から抜け出るように放置なさったのだ。
 そうだとすればイエスは、霊魂たちがご自身に導かれる法をわからなかったのだろうか。しかしはっきり知りなさい。金持ち青年に対してイエスさまの方法が理解できなかったのなら、あなたは未だに伝道について分からないでいる。それなら、これからもっと詳しく調べることにしよう。


 イエスさまが金持ち青年を叱った理由

 金持ち青年に見せたイエスさまの一番目の反応は、彼の質問に対する答えではなかった。とりあえずイエスさまは、微小のことのように見える彼の挨拶のことばを問題になさった。簡単に申しまして、イエスさまは彼が「貴い先生」(マルコ10:17)と言ったことばを問題視なさった。
 ところが私たちは、なぜイエスさまが彼を叱ったのかはっきり知らなければならない。イエスさまは金持ち青年のへつらいの言葉を受け入れなかった!彼はイエスさまをただ「偉大なる先生」とだけ知っていたからである。彼は自分の前におられる方が「生きておられる神の子キリスト」であることを知らなかった。ヘンリースクウガル(Henry Scougal,1650~1678.スコトランド神学者であり牧会者)の本(人間の霊魂の中にある神の命)を引用するなら、イエスさまは彼に挨拶を受けたことを機会にして事実上このようにおっしゃられたのだった。
 「被造物の『貴い』(gcodness)というのは、わざわざ言及したり注目するほどの価値がないと言える。あなたがわたしを貴いと呼ぶ時、あなたは被造物のそのような低レベルで貴いと言ったのだった。被造物ではない神だけが本質的に貴い」
 私たちは自分の、最も高尚な修飾語を人々に全部使ってしまう愚かさを犯してはならない。もしそうしてしまうなら、神を褒めたたえるために使用すべき表現などが残っていないでしょう。そうだとすればイエスさまは、金持ち青年が神さまに使える修飾語を残して置かなかったので彼を叱ったのだろうか。もちろんそうではありません。
 私たちは「貴い」ということばを人々に礼儀上、また、一般的に使用することはできないのか。もちろん使用することはできる。人々同士の対話の中で人について「貴い」ということばが使用されるたびに、私たちは対話を中断させて「人について『貴い』ということばは使用してはなりません、と正すようにすべきだと、イエスさまは教えようとなさったのだろうか。もちろんそうではありません。それなら、なぜイエスさまは、金持ち青年に「なぜ、わたしを『貴い』というのですか」(マルコ10:18)とおっしゃられたのでしょうか。
 「偉大なる福音伝道者」イエス・キリストは金持ち青年を相手に心狭い態度を見せなられたのではなかった。「貴い」ということばを人間に付けられないように私たちにキャンペーンを開きなさいというイエスさまの意味でもありません。イエスさまご自身も「正しい人」を指して「善人」(マタイ5:45)と仰せられました。そうだとすれば、なぜイエスさまはご自分に「貴い先生」(マルコ10:17)と呼んだ金持ちの青年に「なぜ、わたしを、貴いと言うのですか」と仰せられたのだろうか。ここで私たちはイエスさまと金持ち青年との対話が日常的な対話ではなく意味ある対話だったというのを記憶しなければならない。イエスさまが彼を叱ったのは人々には簡単にへつらいながら、神をほとんど敬わない彼らの心のせいだったからだ!イエスさまは彼と対話を始められた時、彼が、神を高めることを願ったし、彼の心の中に神の聖なる品性に対して敬愛心を呼び起こすことを願われた。それで彼の挨拶を機会にして教訓を与えたのだ。
 イエスさまは金持ちの青年にわざと「無限なる聖」つまり「善い」という神の属性に注目するようにさせることで、伝道をなさり始めたのだ。

 なぜ、福音を伝えるのか

 主に永遠の命への道について質問した金持ちの青年が、ましてや貪欲な人ではあったが、主は、彼に対する愛と慈しみに引き付けられ、彼と対話を交わされたのだった。

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた...マルコ10:21

 この聖句によると、主は、彼と対話をなさった時、彼を意識的に愛された。結局、彼が財産に対する欲望を捨てないで離れて行く姿をご覧になる主は、彼を憐れんでとても苦しまれたに違いない。主はエルサレムが慈悲の手を押しのけた時、涙を流された愛の主でした。この金持ちの青年が離れて行く時も、主は深く悲しまれたに違いない。主は単純に彼を回心者統計の数字に増やすために必要な存在として思われなかった。主は彼を、ご自身の伝道活動報告書を華麗に装飾する「勝利のトロフィー」として見なかった。主は彼を深く愛された。罪人に向かうこのような愛は福音伝道者だったら、誰でも備えるべき必須的な資質である。
 ところが、主自ら、この金持ちの青年に福音を伝えさせる本当の動機は、彼の霊魂に対する関心ではなかった。主の心深くに秘められている動機は「神に対する愛」であった。主は人間を救おうとする動機に導かれたのは事実だけど、本当の動機は、父なる神に栄光を帰することだった。福音書などを注意深く読んで見なさい。ならば、主のすべての活動の最高の目的は、父なる神の御心を成しとげ、神の栄光を人々に現わすことだったという事実を知ることができるでしょう。
 ご自身を低くして、この世に来られたキリストは、「さあ、わたしは来ました...神よ、あなたのみこころを行うために」(へブル10:7)と仰せられた。この地で活動なさる時も、主は「{わたしが}いつも、そのみこころにかなうことを行うから...」(ヨハネ8:9)と仰せられた。
 主は十字架にかかるために行かれる時も「父がわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(ヨハネ17:4)と仰せられた。ここで私たちは主の働きの本質が何であったのかを正確に知ることができる。父なる神さまに栄光を現わすこと!それが主の生活を導いた火の燃えるような情熱でした。
 今日の福音伝道者は何よりも、神に栄光を現わすために献身することが何を意味するのかを知らなければなりません。正確な教理を確立させようとする情熱は見えるけど、罪人たちに向かう愛を行動に見せない人々が多くいる。そういう人たちを見る時、私たちは彼らが神を愛しているのだろうかという疑問を抱いてしまう。福音を伝えるために努力がないというのは、本当に恐ろしいことだ。このように罪人たちに対する愛に導かれるのも重要だが、それよりもっと重要なのは神に対する愛に導かれることだ。

 イエスさまのメッセージは違っていた!

 すべての福音伝道者のメッセージには、神を愛するゆえに福音を伝えようとする決心が解けていなければならない。マルコの福音書10章17-27節に出る、金持ちの青年は永遠の命への道を探そうとする自分の必要性に焦点を合わせて対話を始めた。だけどイエスさまは対話の一次的な目的を神とその方の栄光に置いた。イエスさまのすべてのメッセージの核心は父なる神に栄光を帰することであった。
 金持ち青年は死と裁きに対する恐れの問題を解決することを願った。もちろんイエスさまは彼を可哀そうに思って問題に対する解決策を教えてあげたが、それ以前に、それよりもっと重要な問題を確認させてあげる作業を先になさった。イエスさまのおことばには「わたしは神さまを高め、神の御名を宣言し、神の正しさを証しするために来た」という意味を内包している。人間を救おうとする神の目的は、このような志高の目的から出て来たのであった。
 福音伝道には、いつも神の属性の宣言が要求される。イエスさまがヤコブの井戸でサマリヤ女に会われた時、神は霊であると教えられた。(ヨハネ4章参照)。使徒パウロがマルス丘{Mars Hill,古代ギリシャの当時、新しい学説や思想を発表していた場所として、ここでパウロはアテネ哲学者たちと宗教について話を交わした}で、異教徒たちに福音を伝える時、彼は彼らたちが知られない神の品性について強調しながらメッセージを伝えた(使17章参照)。彼は、神さまは創造主であり、すべての命を維持させてくださる方であり、キリストの復活を可能にさせる方であると強調した。このように神を高める時にこそ、ついに私たちは福音伝道を通して神に栄光を帰することができる。
 ところが現代の福音伝道は貧血症にかかったようで、それはメッセージという血管に神の品性という命の血が流れないからである。今日多くの福音伝道者たちはメッセージの焦点を人々に合わせている。彼らは「私たちは罪を犯して大きな祝福を失ってしまいました。その祝福をもう一度取り戻そうとしたらこのようにすべきです。」と言います。
 ところが、キリストの福音伝道は違っていた。主の福音伝道は、神とその方の栄光から出発した。主の方法は、人間が、罪を決して黙過なさらない聖なる神の法を犯したという事実を確かに指摘しながら、神の恵みと力の中でだけ救いの望みがあることを罪人たちに思い起こさせた。キリストの福音は、人間が「聖なる方に出て行き、赦しを求めなさい!」と教えられた。
 今の時代の伝道方法とキリストの伝道方法には大きな差がある。前者は、栄光の主を注目しないで、ただ天国に至る道に入ろうともがいてしまう。後者は、人々の救いから現れる最も慈悲に満ちる神の広大さを現わそうと努力する。前者は、「私は何をしたら永遠の命を得られますか」(マルコ10:17)という質問に、機械的な答えを出そうとしている。そうしながらも、そのような答えが出るしかない十分な根拠を提示することができない。だけど、後者はこのように言う。
 「少し待て!私たちが知るべき神は、最も聖なる方であり、ただ一人正しい方であり、到底接近することのできないほど輝いて清さの真ん中におられる方。あなたが永遠の命への道について聞いたが、それは事実、副次的な問題であるので後で言及しよう。今はあなた自身から目を離し、聖書が指す聖なる創造者を見上げなさい。そうした後で、あなたを見れば、自分の姿が正確に見えるはずだ。無限に聖である神に反逆した被造物が見えるはずだ。今あなたは、自分自身と永遠について、こうだ、ああだ、話せる準備すらなっていない。

 もちろん、私がこのように話すからと言って、神の品性に対しての宣言と、人間の救いの追及が別個だという意味ではない。私が話したいのは、神の属性の宣言が罪人の回心に必須的だという事実である。神を知る知識のない罪人は、自分がどの方の怒りを買ったのか。どの方の裁きと刑罰の下に置かれているのか、どの方が自分を救うことができるのかを全然知らない。神さまについていくつかの確かな理解がなければ、罪人は人格的関係の中で、その方に近づくことができなく「私の救い主」ということばは空虚な口呼になってしまう。
 主は、金持ちの青年の自己中心的視線を聖なる方に回して置こうと試みられた。預言者イザヤは、神の聖を見た時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。」(イザヤ6:5)と叫んだ。人々に、神の聖を悟らせることが福音宣言の副次的な部分なのか。もし、そのように考えるならあなたは信仰の出発すら理解できていないでいるのだ。
 金持ちの青年は自分が永遠の命を得られないかも知れないという不安感のせいで主に走って来た。だけど彼は自分がなぜ永遠の命を得られないのかについては知らないでいた。彼はどの方の怒りを買っているのか。彼は聖なる神の怒りを引き起こさせているのについて呵責がなかった。彼は宗教については言える準備ができていたけれど、神については無知だった。救いの喜びを求める気持ちは切実であったが、ダビデのように「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました...」(詩51:4)という告白はできなかった。彼は主を知らなかった。
 サウルがダマスコに近づいた時、突然まばゆい光が彼を照らし、彼に「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(使9:4)という声が聞こえた。サウルは直ちに「どなたですか」(5節)と聞いた。彼の質問には「私が誰を迫害したのだろうか。どうしてそのようなことが起きるのか」という疑問が含まれている。
 イエスさまに走って来た金持ちの青年にも同一な疑問があったが、それは彼が神の超越的な聖を見たことがなかったからだ。ことばでは表現できない神の威厳を知りもしなかったので、彼は自分の罪がどれだけ大きいのかを知らなかった。彼は心を尽くし、神を愛していなかったし、それが罪だと考えもしなかった。それは彼が神の栄光を見たことがなかったからだった。彼は救いの道について聞ける準備ができていなかった。


「神さまはあなたを愛しています」と言う前に

 ましてや、この金持ちの青年はユダヤ人だったが(多分彼は敬虔なユダヤ人だっただろう)、主は、彼が、神が誰であるのかを知らないでいると思われた。彼は、神の属性について落ち着いて学ばなければならない必要がある人だった。今日の福音主義者たちは、罪人たちは大体神がどなたなのかを知っているだろうと考えるが、これは恐ろしい錯覚である。悲しくも、私たちの時代の人たちは主の時代のユダヤ人たちより神について最も知らない。にも関わらず、現代福音主義者たちは、罪人に会った途端に、突然「神さまが知らせることを願う、五つの事実」を話す。彼らは罪人の永遠の運命に焦点を合わせるが、「神さまはどなたなのか」という質問には関心がない。このような福音主義者たちの導きを受ける罪人は自分がどれだけ危険な状態にいるのかについては知らないでいる。自分が誰の怒りを買っているのかは知らない。これは本当に悲劇である。
 イエスさまは金持ちの青年に神の聖についておっしゃられたけど、それは人間が、神の聖について知るようになれば、自分の問題がどれだけ深刻なのかを悟るようになるからである。私たちを裁かれる方は、完全に聖なる神である。イエスさまは、神の聖についての認識が、金持ちの青年に神さまに対する正当な恐れを吹き込まれるだろうと考えられた。それ以前にも、金持ちの青年は神が裁き主であるのは知っていた。しかし今イエスさまが、その裁き主の聖について、彼に刻印させるのであった。私たちの裁き主の聖は、罰を免罪なさらない聖である。(出34:7参照)
 今日、「神はあなたを愛していて、あなたのために驚く計画を持っておられます」と宣言するのが、伝道の第一歩だという考えが流行している。このような風の伝道方法は、愛が神さまの一番重要な属性であると罪人に話している。しかしイエスさまは人々に、そのような風に接近なさらなかった。聖書全体を調べても、神の愛についての言及より、神の聖についての言及の方がもっと多く出ている。私が見た時それは、楽に感じられる神の属性については簡単に記憶するが、脅かし的で怖く感じられる属性は丸っきり忘れてしまう人間の本姓のせいのようだ。
 数多くの罪人たちは、神はただ愛という属性だけを持っていると考える。神は愛だというのは真理の一部なのに、彼らはこれを全体のように考える。しかしそれは嘘である。もしあなたが見知らぬ人に会って、彼に「神はあなたを愛しています」というなら、彼はこのように考えるでしょう。

 「そうだ。神は私を愛しているので、私にどんな苦しみも与えないだろう。私を赦し、慈悲と恵みを施すだろう。だから私の魂は何の問題もない。」
 一般的に話して、多くの人たちに「聖なる神」という概念はない。私たちに「恵みあふれる方だからすべてを寛大に受け入れて下さる神」という、間違った概念だけがあるだけだ。現代の福音伝道者たちが沈黙してあいまいな態度を取っているので、このような間違った概念がもっと広まっているのだ。
 「神さまはあなたを愛しています」と言うのは、完全に間違った情報を提供している。もう一度申しまして、神は聖なる方である。したがって今この瞬間にも神は罪人に怒っておられる。神の怒りの剣がすでに罪人の頭上に置かれている。彼が悔い改めてキリストを信じなければ、怒りの剣は彼を永遠に苦しめられるだろう。これは私たちのための驚く計画ではない。罪人に対する神の贖いの愛はただキリストの中にだけ発見できる。罪人がキリストの外にいるならどうなってしまうのか。現代の伝道方法は、金持ちの青年を相手になさったキリストの方法とは正反対である。当然知るべきことを知らないでいる彼を、主は無条件慰めなかった。かえって、ただ神おひとりだけが貴い方だと宣言なさることで、彼に恐れを吹き込まれた。
 今日の人々は、神の御名を簡単に使用する。多分この金持ちの青年もそうだったに間違いない。しかし彼らが言う神と、今私が語る神が同じ意味だと錯覚すれば本当に大変なことになる。「神」という時、それは普通「創造主」を意味する。だけど現代人たちが「神」という時、しばしばそれは私たちの目に見える世とほとんど関係のない存在を意味する。私たちが使用する「神」という表現には、「創造の摂理と人間の贖いに主権的権威を持った方」という意味を内包している。しかし罪人たちが使用する「神」という表現には、大体「人間の思いを尊重するゆえにどんな犠牲でも支払うと約束なさった方」という意味が入っている。だけど神は決して妥協しない聖の持ち主である。罰を免罪なさらない方なのだ(出34:7参照)しかし、しばしば罪人たちの神は、立派な人間たちを決して罰を与えない融通性の利く存在なのだ。

 
 5分以内にクリスチャンを作り出してしまう

 あなたは福音を伝える時、神の聖を宣言しているのか。あなたが宣言するメッセージのすべての部分が神の品性に根を下ろしていなければならない。しかしあなたが神について間違った考えをしている人に「天国に至る手早い3段階」のようなことから教えると、あなたは自分自身と彼を騙すことになる。あなたが彼に「私の祈りについて告白してください」と言って祈る時、もちろんあなたは聖なる神さまに祈っているでしょう。だけど彼が祈りを真似しながら「神さま」と呼ぶ時、彼は「他の神」または「名も知らない神」に祈るのである。
 「彼らが...聞いたことがないのにどうして信じよう」(ロマ10:14)という質問は今日の福音伝道者たちが必ず深く考えて見なければならない質問だ。もちろん罪人たちは救われるために救い主の名を呼ばなければならない。だけど主の御名を呼ぶだけでは不足で、主がどんな方なのかを必ず知らなければならない。ヨナ書には「救いは主に属している」(ヨナ2:9)ということばが出る。ただ神の力と恵みだけが私たちを滅びから救い出し、永遠の命に導くことができる。神に対する教理を除いて福音だけを伝えるのは無害な「強調点の変化」ではなく、福音のメッセージの心臓を抉り出すのである。
 宗教心が多い金持ちの青年は「私が何をすれば永遠の命を得られますか」(マルコ10:17)と聞きました。私たちも永遠の道を知るために神に出て行くべきです。しかし神の御前に急いで出て行く前に私たちは次のような事実を知らなければならない。
 「神はいかにも聖なる方であるのか。それゆえ神の栄光の光がただ一筋だけでも私たちの目に見えるなら、私たちは神の足元にひれ伏すしかないし、私たち自身の汚れを悟って恐れおののくでしょう」
 神は「焼き尽くす火」(へブル12:29)であるので、私たちは神の慈悲を求めなければならない。「私がイエス・キリストを受け入れたのは神の頼みを聞いてあげたのだ」と考えてはならない。「聖なる方」があなたに恵みを施したのだ。神のひとり子を信じなさいと命令なさった自体があなたに大きな恵みを施したのだ。
 「天国に至る手早い段階など」のようなことを伝えるのは、福音伝道ではない。神の計画と目的を全部伝えるのが福音伝道である。特に他のどんな存在からも発見することのできない神の貴さを宣言するのが重要である。神は創造主であると伝えるのが知的進化論者たちに囲まれている人に当惑感を抱かせているが、創造主なる神を伝えない伝道は完全に間違っているのだ。神さまは聖であり知恵であり、主権的な方だと宣言するのもやはり当然のように重要だ。このような宣言はあっても良い、なくても良いのではない。


 ある人は次のような反論を広めるかも知れない


 「私たち宣教委員会は神に対する教理が不必要だと言います。なぜならそのような教理が分裂を起こしているからだと言います。もし私が「ただ神は愛だと強調するのは罪人たちを間違って導くことだ」と言えば、深刻な衝突が起こるでしょう。また違った問題もあります。短い期間内に可視的な結果を見せなければならないので神に対する教理を伝えられる十分な時間がありません。
 神の品性についての教理は「不必要な教理」として引きずり下ろすずうずうしさが何処で生まれたので、神学者たちや教会の行政家たちがそのような真似をするのか。自由主義者たちがイエス・キリストの乙女誕生を不必要な真理として規定した時、多くの人たちは教会や神学校を離れた。福音主義者として自称する人々が今は「神の聖と主権の教理は余りにも敏感な主題なので宣言することができない」と言えるのか。そうだとすれば今こそ神の品性についての教理を人々に伝え教えるべきである。どんな代価を支払ってもそれは伝えるべきである。葛藤が起き、団体から追い出されることが起きてもだ。
 パウロは一か所に定着して働きをした牧会者ではなく、色んな所を回りながら働きをした福音伝道者であった。彼はエペソの長老たちに「すべての人々の血について私の責任はない」(使徒20:26)と、いうことができた。どのようにして彼はそのような大胆な主張をするようになれたのだろうか。それは、彼が人々に略式3段階の救いの方法を伝えたからではない。そのようなものは、新約の伝道方法ではなかった。パウロがそのように大胆に主張することができた根拠は「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」(使徒20:27)という、彼のことばから発見できる。色んな所を回りながら福音を伝える時パウロは完全な教理を余すところなく全部伝えた。彼は必要な部分を除去した、干からびたミイラのような「永遠の命に至る3段階」を伝えたのではなかった。
 使徒パウロと違って、この時代の宣教委員会などは、自分たちの宣教師に人々の血を手に続けて付けているように要求する。彼らは宣教師たちにこのように言う。「他の福音主義者が反対する教理を伝えてはならない。それは自分たちのお腹を揺さぶることだ。聖書が語っていても伝えてはならない。あなたのそばで労苦する同僚宣教師たちに福音の重要教理を強要してはならない。そのようにすれば面倒なことが起こる。ただ今やっていることに集中しなさい。」
 5分以内に相手を説得してキリストを受け入れさせる、言わば「福音の核心」は、福音を安っぽい福音にさせてしまうことなのに、そのような伝道をする人は、かえって教会の中で歓迎を受ける。半面、神の属性を伝えるべきだと主張する人は、理論に執着する気難しい人だと非難を受ける。教会のこのような現実は間違っている。
 今からは、福音主義的陣営の新正統主義と決別すべき時だ。死んで行くあの数多くの可哀そうな罪人たちに必要なのは、キリストの方法に従って宣言すべき福音だ。神の属性を教え、神を高める福音宣言がないのでこの世は死んで行っている。そういうわけで、金持ちの青年を相手になさったイエスさまの方法を学んで福音を伝えよう。

 


 2.神の法を失った  22
   
     十字架を提示する前に、罪を悟らせるみことばを宣言しなさい。
 



戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
                  マルコの福音10章19-21節
   
   
     
   
 第一の戒めから、第九の戒めまで

 イエスさまが金持ちの青年におっしゃったことばを深く考えるほどイエスさまの伝道方法と、今の時代の伝道方法の差は最もはっきり表れる。イエスさまは神の聖について言及なさった後、金持ちの青年に「神の聖なる法」について仰せられた。{この章で、「神の法」という表現は、その方の永遠の道徳法だけを意味して、儀式法や市民法は意味していない}。もちろん、その聖なる法が圧縮された形態が直ちに「十戒」なのだ。

 金持ち青年になさった主の一番目のおことばは、ある意味で神の完全な法と関連がある。道徳法は神の品性を現わしている。主に訪れた金持ち青年は神を正しく礼拝できない人であったが、それは彼が神について曲解された概念を持っていたからである。彼は神を賛美するより、人々の機嫌を取るのが性に合う人であった。「イエスは言われた。なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(マルコ10:18)と、主に叱られた時に、彼は自分が十戒の第一の部分(第一戒めから第四の戒め)を犯したのを悟るべきであった。
 主は、金持ちの青年を責めた後に、第五の戒めから第九までの戒めを引用して仰せられた。(もちろん主は、十戒の順序に従ってそれらを引用なさったのではなかった)。ところが、ここで主は十戒の引用が「貴い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ10:17)との質問に対する正確な答えだろうか、という疑問が私たちに生まれる。もちろん主は、金持ち青年が律法を守って永遠の命を得られるとは考えておられなかった。聖書は次のように教える。

  けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました...なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
                                  ガラテヤ2:16


 なぜ、主は万人に提供される「値なしに与えられる救いのプレゼント」については言及なさらなかったのだろうか。なぜ主は「わたしが救い主だ」と仰せられなかったのだろうか。なぜ主は彼に律法を思い起こさせたのだろうか。
 ここで私たちは、主がどの誰よりも、より立派な福音伝道者だという事実をもう一度思い起こさせなければならない。主のメッセージを基準にして私たちのメッセージを検討してみよう。逆にしてはならない。福音伝道に必ず含まれている必須的な要素は「律法の宣言」なのだが、それは聖書が「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロマ3:20)と教えているからです。

 現代教会と宣教会たちの福音伝道が無力に限りないのは、他の理由もあるでしょうが、福音伝道において神の聖なる律法の宣言が抜けているからです。
イエスさまのおことばを聞いた金持ち青年は当惑しました。彼は何が不足して永遠の命を得ていないのかを知らなかったからです。彼は誰の怒りを買ったのか。彼が何をしたので神さまが怒っておられたのか。イエスさまが戒めを並べられる時、この大人しい役人は「私はあのような戒めなどは全部守っている」と考えたからです。イエスさまが「姦淫してはならない」と戒めを引用なさった時も、彼は心の中で「私はそのようなことは一切していない」と考えたでしょう。イエスさまが戒めを並べる度に、彼はそのような反応をしていたのです。ですのでイエスさまは、彼が眼を開いて自分の罪を見れるまで、彼に律法を適用させました。ただ律法の光が照らされる時、私たちの心の中の隠れた罪があらわになるからです。
 そうだとすれば、何が罪なのか。これに対する聖書の答えは、第Ⅰヨハネ3章4節で発見できる。

 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。

 神の正しい法がなければ罪というのは成立しない。金持ち青年は神の律法を完全に誤解したので自分の罪性を悟ることができなかった。今日の罪人たちは神の聖なる法は何か、それが自分たちに何を要求するのかを知らない。従って彼らは自分たちのことを「罪に定められる罪人」だとは思っていない。神の法すらわからないので罪という概念すらもないのである。
 今日の福音主義の一般的な伝道方法は、キリストの十字架から突然持ち出して提示する。ところが律法を無くしては十字架は無意味なのである。神の完全な戒めなどに対する尊敬心がない人たちから見た時、イエスさまの十字架の苦難は無意味な悲劇として見えるしかない。だけどイエスさまは、罪人たちに向けられる律法の正当な要求を十字架で充足させられた。十戒が自分に何を要求するのかを知らない罪人は、十字架の上に体が打ち付けられ、血を流したキリストの苦難がどんな意味なのかを悟れない。神の聖なる法の裁きが何であるのかを知らない罪人はキリストの苦難を見ても信仰を持てないでただ憧れるだけである。ローマ書3章25節は、キリストの十字架の死は「和解のいけにえ」だったと語っている。キリストが律法を犯した人間たちに対する神の怒りを代わりに担われたのである。
 自分がどれだけ危険な状態に置かれているのかを知らない金持ち青年に、救いの道を提示したとしても何の意味があったのだろうか。彼が永遠の命を得る問題について不安なのは事実だけど、彼は自分が「律法を犯した者」という考えはさらさらなかった。しかし聖書は「罪は不法である」(Ⅰヨハネ3:4)と語っている。事実上、この金持ち青年は、自分には罪がないと言った。だけどイエスさまは、「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)と仰せられる。道徳的に綺麗な生活を生きて来たこの金持ち青年が神の法に照らして自分の魂を見ない限り、彼は福音を受け入れられる準備ができていなかった。

 罪を認めることから

 もちろん現代の伝道方法も「罪人が救い主を本当に受け入れようとしたら、先に本人が罪人であることを悟らなければならない」とは認める。だけど口先だけで認めるだけである。
 今日のトラクトを見なさい。それらは罪人を伝道する時、「あなたはすべての人が罪人であると知ってますか」と聞きなさいと教える。そして彼らが、簡単にも「はい」と答えないでもじもじしていれば、すぐに「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ロマ3:20)というみことばを差し出しなさいと教える。しかしこのような接近は、罪が何か、罪人に説明をしない、これが問題なのだ。
 実はすべての人が罪人だということばに同意しない人はほとんどいない。とても頑なな人でも同意するでしょう。人々は、「もちろん、私が、神様より聖くもないし、完全な人がどこにいるのでしょう」と認める。この金持ち青年も、それぐらいは認めたようだ。しかしこのような同意を、自分の罪を認めたとみるのは難しい。この金持ち青年は、自分が嘘つきであり、姦淫する者であり、盗人だというのを認めていなかった。
 今日、数多くのクリスチャンたちは、神の法が旧時代の唯物でもあるかのように、それに対する拒否感を現わす。彼らは伝道する時、神の法を話し合うのは人々に神の恵みを受け入れるのに妨害になると考える。しかし主が伝道道具として、一番先に使用なさったのが直ちに「神の法」だった。彼らが罪人だというのを教えることで、彼らの心の中に神の恵みに対する渇望を吹く入れられる唯一の方法が十戒を聞かせることだと主は考えられた。
 イエスさまが井戸のそばで会ったサマリヤの女は間違いなく第7の戒めを考えて良心に呵責を感じられたはずだ。もし、そうでなかったなら、彼女がそのように回心することはできなかったはずだ。この金持ちの青年も律法を自分自身に適用すべきであった。もし、そうでなかったなら、混乱から続けて抜け出られなかったはずだ。使徒パウロは「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう」(ロマ7:7)と述べていた。これは、彼が律法という道具を通して回心に至ったということだが、まことの聖徒であれば、彼のこのことばに同意をするはずだ。
 罪を悟らせるのが神の法である。罪人が特定な悪に対する律法の定めを骨折れるほど感じなければ、彼が慈悲を受けるためにキリストに走っていくようなことは起きないはずだ。精一杯聞いても「永遠の命を受けるために、私に必要なのは何ですか」と聞くでしょう。律法を確かに理解した人はただ神の恵みだけが生きる道だということを知るようになるでしょう。罪人に本当に必要なのは神さまに慈悲を求めることなのだ。
 過去、どの時代より現代こそ神の法に対する無知が一番多く現れる。現代の説教の講壇は出エジプト記20章のみことばを無視する。ましてや信者たちまでも安息日を記憶しなさいという第四の戒めを無視する。礼拝をおろそかにする世の人々は自分たちが罪人であることを知らない。神の律法を無視する安っぽい神学の機嫌を取るために、多くの説教者たちが今のこの時代にこそ必要な真理を本当に叫んでいない。

 律法と愛は互いに敵同士ではない

 滅びに向かって走って行く人々をキリストに導くのには律法が必要だ。しかし、人々からこの律法に対して沈黙するようにさせるために、サタンはとても巧妙な戦術を効果的に使用して来た。それは人々が、律法と愛は互いに矛盾していると、互いに和合できない敵の間であると信じるようにさせたことだ。律法と愛が互いに敵の間がらだったら、人々は当然愛を選び律法は捨てるでしょう。なぜなら愛を無視する人は誰もいないからである。だからサタンは、愛と律法は関係がない、律法と矛盾していると偽りを広めた。
 しかし聖書は、サタンの偽りと正反対になることばを宣言する。律法と愛は、互いに密接に関連している。主は律法が人間を愛しなさいと教えているのだとはっきりなさった。主は、律法の核心を次のように要約なさった。
  
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
                            (マタイ22:37-40)


 律法は、愛が要求することを説明してくれる。それ以上でも、それ以下でもない。同じように主は、この点を反復して強調なさったのが私たちの目を引く。
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。」(ヨハネ14:15)と仰せられた。律法の案内なしに愛を実践に移すことは不可能である。
 使徒ヨハネは「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(第Ⅰヨハネ5:3)と確かに教えた。愛があれば律法は楽しく感じる。神を愛する人はその方の教訓を守るのを喜ばれる。神を愛する人は、ダビデのように「わたしをあなたの戒めの道に導いてください。わたしはそれを喜ぶからです。」(詩119:35)というしかない。自然な人は、神の律法を束縛のように感じる。彼らは神の律法を守りなさいという命令を過酷な特栽者の強要のように感じる。それゆえ律法は、神と人々に対する愛が自然な人の中にはないのを現わす。もし自然な人の中に愛があるなら、律法をそれほど重く感じないでしょう。
 もう一度申しますが、愛があれば、律法は楽しく感じる。なので律法は愛を実践する具体的な道なのだ。愛は表現されなければ死んでしまう。愛の心がある人は、「私は愛をどのように表現できるのだろうか」と聞くようになるが、神の聖なる戒めなどが直ちにその答えである。Ⅰヨハネ5章3節が明らかに教えるように、神に対する愛と敬虔が表現できる方法はその方の戒めなどです。また人々に対する愛が表現できる方法も、その方の戒めなどである。ローマ書13章8-10節が確かに教えるようにだ。


    互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。 ロマ13:8-10


 律法と愛は決して敵の間ではない。救いの方法という観点から見た時、律法と恵みは互いに葛藤の関係にある。律法は命に至る道を罪人に提供できない。律法は罪人の心を揺さぶってしまうが、律法に驚いた罪人は神の恵みに逃避する。なぜなら、神の恵みが義と認められる唯一の道だからなのだ。救いはただ「恵みのゆえに、信仰によって」(エペソ2:8)受けられる。
 しかし、そうだと言って、律法が福音伝道に全然必要なにということばではない。もちろん律法は神の前で義と認められるために守るべき基準ではない。パウロは「律法の行いによっては神の前に義と認められる人は一人もいない...」(ロマ3:26)と教える。にもかかわらず、ロマ書の始まりの部分から、彼は律法の剣を広範囲に振りかざしたが、それは「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」(ロマ3:19)である。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
 神に対する憎しみと、人々に対する敵意が罪人の心の中にあるのを現わすために、私たちは戒めを宣言しなくてはならない。そのように宣言した時に、ついに罪人は自分に義と愛を与えられる神の恵みに逃避するようになるでしょう。
 人々がキリストに立ち返えらないのは神に敵対して罪を犯したという事実を悟れないからです。自分が罪人だという事実を悟れないのは罪が何であるのかを知らないからである。彼らに罪の概念がないのは、神の律法が宣言されないからです。しかし彼らを早く変化させようとする慌てる心で「すべての人が罪を犯した」という、一般論的にいうのは何の効果がない。「自分が」罪人だという事実を彼らが悟る時まで十分な時間を持って接近しなければならない。罪人が律法によって死を受けられるまで(ロマ7:11参照)彼らに十戒を十分に説明しなさい。彼が律法によって傷を受けたのが見えるなら、その時彼に福音の油を注いで彼を癒しなさい。
 サムエル・ボルトン(Samuel Bolton)は、次のように言う。
 「福音という赤い糸が入るように道を開くのは、律法の鋭く細い針である」

 第10の戒め

 主は、十戒に対する金持ちの青年の知識が皮相的であるのを見抜いておられた。主が律法の要求について言及なさるとき、彼は錯覚に陥って自分には罪がないと主張した。しかし戒めなどは、外に現れる模範的行動だけを要求するのではない。彼は、律法は聖であり、つまり霊的だということを悟らなければならない。(ロマ7:14参照)。彼は律法の厳格な規則は知っていたけど、律法が人間の考えと意図まで適用されなければならないという事実は知らないでいた。だから主は、彼に律法をもっと徹底的に適用させなければならなかった。律法という刃物を持って彼の霊魂深いところに苦しい傷を付けなければならなかった。
 主は、ご自身が言及なさった戒めなどについて霊的適用を試みることもできた。山上の垂訓でもなさったようにだ。例えば、主は「姦淫してはならない」という戒めについて「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイ5:28)という霊的適用を試みることもできた。主は「殺してはならない」という戒めについて、「兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう...」(マタイ5:22)という霊的適用をおっしゃることもできた。しかし主は、そのようになさる代わりに、彼が一番大切にしている部分を指摘なさった。
 「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。」(マルコ10:21)とおっしゃる時、主は第10の戒めの実際的な適用をおっしゃったのである。この金持ち青年の心の中に膿によって腐っている貪欲の患部をえぐり取るために主は、「盗んではあらない」という神のみことばをナイフのメスを使用なさったのである。彼の貪欲の罪は人々の目には見えなかった。彼の貪欲の罪は人々の目には見えなかった。その罪は彼の行動を通しては現れなかった。だけど汚く、醜い貪欲が彼の心を支配していた。しかし神のみことばがまるで矢のように彼の良心に釘付けられた。 
 主は、彼に「盗んではならない」と仰せられたなら、行いが模範的だった青年は「私は、他の人の財産やお金を持つことを望みません。私は今の自分の財産で満足します。」と言ったでしょう。それゆえ主が、単純に出エジプト20章を引用して仰せられたのなら何の効果もなかったでしょう。財産を全部売って貧しいものたちに与えなさいという主のことばは、十戒の第10の戒めを実際的に適用させながら彼を試されたのである。しかし彼は神とその方のひとり子イエス・キリストより自分の財産をもっと愛したので主から離れて行った。
 しかし、主から離れて行った時、彼は自分が貪欲な罪人だったということを確かに悟っていた。神を愛するのがすべての律法と預言者の訪れだったにもかかわらず(マタイ22:37-40参照)。彼には神に対する愛が足りなかった。

 まことの愛は真理を妥協しない

 今あなたは、主が彼に、神よりまだ清くない事実に同意するように努力なさったのではないというのをわかるのか。主は、神の律法の剣を回して、彼の良心の深い所に傷を作られた。主は、彼によって「すべての人は罪を犯した」という真理に同意するようにさせるために努力なさったのではなかった。彼が「私は聖なる神に反逆した罪人だ。私の貪欲のせいで、私は恐ろしいサタンに売られている」と骨しみるぐらい感じるまで、主は彼に律法を適用なさったのだった。
 主は愛という名の元で、神の聖なる法を犠牲にさせなかった。かえってその金持ち青年が主から離れるようにさせる側を選ばせた。もし、主が人々を得るために「決して犯してはならない神の完全な律法」を無視したなら、それは結局愛までも破壊したでしょう。なぜなら愛は、戒めなどを守るのと深く関連しているからだ。まことの愛は、それの根となる真理を妥協の対象にしない。
 今日の説教者たちは、神の聖である律法を宣言する法を学ばなければならない。なぜなら、人々の良心に傷を付ける方法をわからなければ、私たちが「福音の包帯」によって包んであげるべき傷までも存在しないからである。傷がなければ包帯は何の意味があるのか。今日の教会は福音のメッセージを少なく伝えてもいくらでも回心者を得られるという哲学に従って宣教をして来た。教会は「メッセージを少なく伝えるほど福音がさらに遠くに広まって行くし、福音主義者たちの連合がもっとうまくいく」と伝わって来た。しかしその結果、世の人々が真理を見られなくなった。周辺の人々に略食救い法を提示する規格化されたトラクトの内容をどうしても叫んだが、彼らは飽き飽きしたという反応を見せ、教会は弱まって行った。
 これからキリストの完全であり、豊かな福音を回復すべき時が来た。私たちは神の聖なる品性を伝えるべきである。神の永遠な法を伝えながら、それを聖徒たちに一生懸命に適用させながら伝えるべきである。具体的な適用がないまま一般論的に伝えるなら、彼らは悟った点や、感じた点もなく自分たちの義を先立てながら反発するでしょう。もし、イエスさまが一般論的に律法を言及なさったのなら、金持ち青年は自分の義を立てながら反発したでしょう。
 道徳的律法が人々の心の深くに傷を付けるように、精密に研究し適用するならどれだけ素晴らしいだろうか。神の聖なる律法が人々の心の中の動機と、願いと、感情と、態度を相手に、厳格な要求をするのだとはっきり宣言する説教が今どこにあるのだろうか。そのような説教が宣言される教会では、罪人たちの罪を悟って福音の道について聞く準備をしているでしょう。




 
 
 3.神に対する悔い改めを失った  31
   
        主イエスに対する信仰とともに、神に対する悔い改めを促しなさい。
 




         帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
                           マルコの福音書10章21節





 悔い改めを叫ばない教会

 マルコの福音書10章21節のみことばを始められる前までイエスさまがなさった作業は、金持ちの青年が福音の最後の通達を受け入れられるように彼の心を準備させることでした。具体的に申しますと、イエスさまは神の唯一無為な善を彼に教えたし、彼に律法を思い起こしながら、特にそれを彼の心と生活に適用させた。そういうわけで今度彼は永遠の命を得るために何をすべきなのかについて聞く準備ができていました。彼がすべきは悔い改めをし信じることでした。
「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」(マルコ10:21)という主の命令は、金持ち青年の心の中に隠れている貪欲の罪を指摘なさったのでした。しかし主はただ、彼の根深い貪欲を悟らせるためにそのように命令なさったのではない。彼が自分の財産を捨てるのは福音の本質的な要求だった。彼が天国の宝を得るためには「財物」という、神を捨てなければならない。
 これがまことの悔い改めの核心です。「悔い改め」と翻訳されている新約の単語には「心の変化」という意味が内包されている。貪欲な人たちが救いを受けるためには富に向かう熱い情熱を放棄しなければならない。世にあって成功したこの青年、つまり永遠の命の道を知るためにイエスさまを訪ねたこの青年が、自分の心を根本的に変えなければ救いは彼から遠ざけられてしまうでしょう。
 使徒パウロは次のように語った。

     私は...いっさいのことを...ちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められる望みがあるからです...ピリピ3:8-9

 
 パウロは自分が回心する前に大切に思っていたのを蔑視するようになりました。彼の心は変わりました!「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」(マルコ10:21)とおっしゃる主のことばの中には「今まで守って来たあなたの価値感を完全にひっくり返しなさい。あなたの生活の哲学に革命を起こしなさい。あなたの霊魂の偶像から立ち返りなさい」という意味が内包されていました。金持ちの青年は永遠の命への道を聞くために主に急いで出てきたが、福音が命を得ようと願う罪人に何を要求するのかは知りませんでした。だけど今度彼は、主のことばを聞いてから自分は聖なる神の法を犯したというのを知りました。従って主が彼に悔い改めを命じたのでした。
 大体私たちは、福音伝道者たちが「イエスさまをあなたの個人的な救い主と受け入れてください。」という表現を使いながら伝道するのを見ることができます。だけど、このような表現は聖書に出ていないです。このような表現は空しいことばになってしまった。「個人的な救い主」ということばが、キリスト者たちには貴重なことばですが、罪人に永遠の命への道を教えるには不十分なことばだからです。新約聖書は悔い改めをとても強調しますが、残念ながら今日の福音主義的教会の説教壇で悔い改めを叫ぶ声が急速に小さくなっているからです。
 公の働きを始められた時イエスさまは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と叫びました。井戸の傍らでサマリヤの女に出会った時にも、イエスさまは姦淫の罪を捨てなさいと要求なさいました。ザアカイに出会った時も、イエスさまは彼に、盗みを辞め、博愛を実践しなさいとなさいました。そして今この金持ちの青年には、「物質的な欲を捨て悔い改めなさい。」とおっしゃっているのです。
 使徒たちも同一メッセージを伝えました。イエスさまを一番近くにお供しながらイエスさまの伝道方法を良く理解した彼らは出て行って、人々に「悔い改めなさい」と宣べ伝えました(マルコ6:12参照)。五旬節にペテロの福音宣教を聞いて心が刺されてどうすることもできないでいる彼らに「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(使徒2:38)と叫びました。「生まれつき足のきかない男」(使徒3:2)を癒した後に、神殿でメッセージを宣言する時、ペテロはやはり「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒3:19)と叫びました。ペテロは主から受けた「大使命」を実践していた人でした。
 
   こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、
   三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させ
   る悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えら
   れる。ルカ24:46,47


 
 宣言されるべきメッセージの教理的な内容を含んだこの「大使命」の唯一の記録がこのみことばです。ルカの福音書24章46,47節で主はご自分の名によって罪の赦しを受けるようにする悔い改めがエルサレムから始まってすべての民族に宣べ伝わらなければならないと告げられました。
 マルス丘での知識人たちに福音を伝える時、パウロは「神は...今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)と叫びました。「悔い改めなさい」という叫びは、使徒たちのラッパの声の補助的な旋律ではなかったのです。それは罪人たちに向かって響き渡った彼らのラッパの声の主旋律でした。しかし残念ながら、「キリストを個人的な救い主と受け入れてください!」という叫びは、「悔い改めなさい!」という重要な命令を伝えていないです。
 エペソでのパウロは各家々を周りながらユダヤ人にもギリシヤ人にも、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(使徒20:21)を証言した。アグリッパ王の前でもパウロは自分の使命が異邦人たちの目を開かせ、彼らを暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、罪の赦しを得させるためであると証ししました。(使徒26:18参照)。パウロは異邦人たちに悔い改め、神に立ち返り、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと伝えました(使徒26:20参照)。
 
 
 悔い改めのない赦しの内容

 今日「罪を告白して赦しを受けなさい」というメッセージが宣言されているが、もちろんこのメッセージが間違っているのではない。だけど問題は、「悔い改めなさい」というメッセージが宣言されていないということです。現在、福音伝道者たちと牧会者たちは、このメッセージを伝えないでいます。そして間違った情報が伝達されたこの時代の人々は、過去の生活の方式を継続、維持しながらそこにイエス・キリストという「地獄代備用保険」を添付しただけです。この世の宝も持ち、天国の宝も持ちたいということです。一石二鳥を食べたいということです。
 イエスさまに出会った金持ちの青年は、永遠の命を得ようとすれば罪を捨てなければならないことを知って悲しんだが、今日の人々はそれすらも分からないです。しかし確かに申しますが、罪を捨てるのは福音が約束したことを得るための必須条件です。聖書はいつも悔い改めと罪の赦しを一つにつなげて語っています(使徒3:19、ルカ24:47、使徒26:18参照)。罪の赦しを得ようとすれば悔い改めなければなりません。
 しかし罪の告白だけでは不足です。罪に染まった過去の生活を捨て、義の中で新しく行いたいという断固たる決心がなければなりません。私たちは神と財を両方とも仕えることができません。(マタイ6:24参照)。神は最後まで財物を拝む人は救わないでしょう。「私は財物を愛する罪を犯しました」と告白しながらもはやりそれを追及するのは悔い改めではないです。イエスさまに出会った金持ちの青年が救いを得ようとすれば、罪を告白するだけではなく、罪を捨てなければならなかったのです。
 箴言は「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)と語っています。罪を悲しんで告白するのが、悔い改めの必須的な部分なのは事実だけど、それだけでは不足です。心を変え断固として罪を捨てるのが、まことの悔い改めの核心です。
 しかし今日、悔い改めを教える福音宣教が行われないでいるのは、ある意味で当然なことです。なぜなら人々は神を知らないからです。彼らが罪から立ち返らないのは罪を見れないからです。罪を見れないのは神の法を知らないからです。イエスさまのメッセージの最初の部分を無意味だと感じる現代説教者がいるのなら、彼らは自分たちが罪人たちに投げる主な要求事項などを徹底して検討してみないといけないです。
 死を目の前にした罪人たちにとって良心の呵責を感じるようにするのは難しくないです。刑罰を受けるようになる犯罪者たちは、いつも自分の悪行を後悔します。あなたの友達に死の以降の世について考えるように言ってみなさい。そうすれば彼らは死んだ後、もし悪いことでも出会うかと思って不安感を感じるでしょう。彼らがそのような反応を見せれば、彼らの不完全な生活が来世の審判の原因になると彼らに言ってあげなさい。そうすれば彼らは恐ろしい来世の裁きから救ってくれる救い主としてイエスさまを受け入れる心の準備を備えるでしょう。
 しかし、そのような彼らに悔い改めなさいと要求してみなさい。そうすれば彼らは「今何を言ってるの?」という反応を見せるでしょう。彼らに悲しい心で罪を告白しなさいと言うなら、彼らは大して問題なくそうするでしょう。しかし彼らが知らない罪から立ち返り、彼らが知らない神に立ち返るようにさせるのは不可能です。自分がどんな特定な律法を犯したのかも分からないし、自分にどんな深刻な罪の習慣があるのかも知らないから、彼らは自分が「何から」立ち帰るべきなのかをわからないです。彼らは死を直前にしていることで悲しむけれど、聖なる神の怒りを買っていることのゆえには悲しまないです。彼らは、罪が弱い被造物の不可避的なミスによるとだけ考えます。
 人間の罪に対して怒る、神の栄光を現わすために福音伝道者たちは、道徳法について話さなければなりません。そのようにすれば罪人たちは涙を流すでしょう。それは自分が危険にさらされているという事実を悟ったからでもあるが、何よりも万軍の王である神に反逆したというのを悟るからです。ゼカリヤ書12章10節には、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)というみことばが出ます。このように悲しむようになる魂は、ヨハネ・ヘルマン(Johann・Heemann)のように告白するでしょう。
 
 
 おぉ、主イエスさま!
 罪を犯した人は誰ですか。
 誰のせいで、主がそのようになりましたか。
 あぁ、私の反逆のせいで主が苦しみを受けられました!
 主を否定した人は、直ちに私でした。
 私が主を十字架に付けました!
 
 
 「肉的なキリスト者」ということばに対する誤解

聖なる律法の鏡を通して罪人の特定な罪が現われなければならない。律法が霊的に適用されて心の中の隠れた罪を現わさないといけない。そのようになった時に、ついに罪人は救われるために、自分がどんな罪から立ち返るべきなのかを知ります。
 もし、金持ちの青年に今日の伝道方法に従って福音が伝わったなら、彼は福音を喜んで受け入れたでしょう。悔い改めの条件を充足させる必要がなかったなら、彼は天国に至るように助けるイエスさまの助けを喜んで受け入れたでしょう。自分は神の栄光に至っていないのを認めたでしょう。(もちろんそのようにしたとしても、それは使徒パウロがローマ書3章10-18節で言うような意味とは全然違った意味になるでしょう。)そのようにすることで彼は、値なしに与えられる永遠の命のプレゼントを受け入れたに違いないです。しかし彼は神の義なるひとり子を受け入れるには、汚い貪欲を捨てる準備ができていなかったのです。「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」(マルコ10:21)という命令が彼にはつまずきの石でした。彼は永遠の命を得るために主の命令に従順する準備ができていなかったのです。彼はキリストを得ることを願って、喜んで主に来たけれど自分の財物を捨てることは臨まなかったのです。
 今日、教会の中にイエスさまを信じると告白するキリスト者たちがとても多くいます。だけど彼らはイエスさまが、永遠の命を得たいと願う人に、悔い改めを要求なさるという話は聞いたことがないです。自分の財物を売らないでただイエスさまを個人的に救い主として受け入れるために集まってくる人たちは多いです。しかし今日の説教者たちは、彼らに天の宝を得るためには「悔い改め」という条件がついて来るのだと教えていないです。その結果、現代の福音伝道を聞いて「キリストを受け入れる決断」を下した人々は、その以前と同じようにやはり世的です。事実彼らの決断は無意味なものです。貪欲な人たちは決断の以降にもやはり財物と快楽に執着します。財物を持って楽に暮らそうとする態度が彼らの生活の中ではっきり表れています。
 そのような現象をみて、驚悪な福音主義者たちは「肉的なキリスト者」という概念を作り出したのです。ここで少しこの単語について調べてみましょう。第一コリント3章に出るパウロの表現は多く応用されています。パウロは肉的な行動をする「キリストの中にいる幼子たち」を指して言ったのです。イエス・キリストの支配と統治に屈服しない人たちを指して、まことのキリスト者だと言おうとする意図がパウロには少しもありませんでした。彼らがキリストを主として認めて服従しないなら彼らは子供にもなれないのです。聖書は「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と語っています。
 (一部間違った福音主義者たちによると)「肉的なキリスト者」とは、「罪を捨てないで永遠の命への賜物を受けたキリスト者」だという意味です。肉的なキリスト者は、イエスさまが自分の救い主になるようには許可するが、イエスさまに自分の生活を完全にお捧げはしないのです。間違った福音伝道の副作用を解決するために、教会は間違った解決方法を持ち出してきたのです。教会は人たちの疑わしい体験などを回心と擁護します。そうしながら教会は次の段階を踏もうとする人に「勝利の生活」という保障を与えるのだと提案します。
 イエスさまに永遠の命への道について質問した金持ちの青年が「肉的なキリスト者」というのがあると知ったのなら、喜んでそのようになりたいと言ったでしょう。この世で、サタンを拝むと同時に、永遠の命の確信も持てるというのを彼が断わる訳がないからです。だけど聖書は「悔い改めないで救われる人」という怪物のような存在を認めないです。私生児は神の国に入ることはできないです。誰でも天国に入ろうとすれば「信仰」という母も必要だけど「悔い改め」という父も必要です。
 
 罪を捨てなさい!

 しばしばキリストは人々に「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ13:33)と仰せることで、彼ら自らご自分を離れるようにさせました。主は「豊かな生活」とか、「勝利する信仰の巨人たち」のようなことはおっしゃらなかったのです。主は、誰でも主の弟子になろうとすればすべてを捨て、主に立ち返らなければならないと仰せられた。金持ちの青年はこの地の宝を捨て、天の宝を得るのか、この地の宝をしがみつき滅びるのか、二つの中で一つを選べば良かった。罪を捨てるのか、主から離れるのか、両者卓一だけがありました。主が提示なさった救いの条件を緩和させる権利が私たちにはないです。
 キリストはこの時代のために「他の福音」を作りませんでした。しかし悲しくも、福音主義的宣教師たちと、教会などと、書物などは、不知中にも悔い改めの教理を捨て「悲しみながら告白する平安な方法」を受け入れました。悔い改めは、福音の根本的であり必須的な礎石なのに、これが今倒されています。  
 「キリストについての初歩の教え」(へブル6:1)が崩れるなら、現代の説教者たちの影響を受けている魂は結局どうなってしまうのか。現代福音伝道が実を結ばないのは当然なのだ。それゆえ今から教会は、当然、当惑感を覚え、悩みに陥らなければならない。なぜなら今私たちはイエス・キリストの福音を伝えないでいるからです。
 使徒パウロは各家々を歩きながら「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(使徒20:21)を証言しました。聖霊の力が教会に臨まれる時、教会が伝えるべき核心メッセージは直ちに「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」です。これからは悔い改めをもう一度伝えなければならないです。私たちはキリストが金持ちの青年に与えた最後の通達、つまり悔い改めなければ滅びるという両者卓一の警告を人々に伝えなければなりません。悔い改めなければ聖なる神を蔑視する罪を犯すことなので、神の裁きを受け滅びるのは当然です。
 罪を捨てなさい!そうでなければ、神さまはあなたをご自身の目前で追い出すでしょう。放蕩息子が娼婦の胸の中に続けて留まっていたなら、彼は決して父に戻ることはできなかったでしょう。財物を愛して続けてしがみついているのなら決して神の国に入ることはできません。
 
 
 
 
  
 
 
 
 4.神のひとり子に対する信仰を失った   39
   
教会の中で、慰めだけを受けようとする者に、十字架を負いなさいと要求しなさい。
 
 
 
 
 
 
             そのうえで、「十字架を背負って」わたしについて来なさい。
                             マルコの福音書10章21節
 
 
  
  
 
 悔い改めと信仰はコインの両面と同じ

 悔い改めと信仰はまるでシャム双生児と同じだ。一つがあるところには必ずもう一つもあるのは当たり前だ。まことの回心者の心にはいつもこの二つが結合されている。まことの信仰にはいつも悔い改めが含まれている。まことの悔い改めにはいつも信仰がくっついている。従って福音伝道者たちは、時には「悔い改めなさい」ということばだけを言って、また時には「信じなさい」ということばだけを言って、また時には「悔い改めて信じなさい」ということばを言います。キリストは金持ちの青年に死んだ罪の行いから立ち返りを要求し、またご自身を信じなさいと要求なさいました。
 道徳性が高い金持ちの青年は財物をとても大事に思う価値観を持っていました。彼の思考は富に対する尊敬と熱望に根を下ろしていました。彼の愛は財物に向けられていました。彼の意志は世の財物を維持し増やす側に向かっていました。彼に悔い改めを促した主の命令は、彼にその生活の哲学を捨てなさいと要求なさる命令でした。彼は自分の知性と感情と意志から世の財物を締め出さなければならなかった。そうでなければ天の宝を得ることができなかった。
 しかし永遠の命の道を聞いた金持ち青年の考えと欲求と情熱は続けて真空状態に留まることはできなかった。彼の心が綺麗になったとしても続けて空けたままにすることはできなかった。なぜならそうする場合、初めの悪霊よりも最も悪い悪霊7つが入って来るようになるからです。(マタイ12:43-45参照)。ですから新しい哲学が彼の心を満たさなければならなかった。彼の心を支配する新しいのがあるべきだった。先生が現れ彼の意志を正しい方向に導いてあげる必要があった。彼は主イエス・キリストを信じなければならなかった。もしそうでなかったなら、ひとつの罪を捨てたとしてもそれより悪い罪が、他の罪が入って来るからだ。結論的に言うなら、彼は信仰を持つべきであった。
 このような文脈で主は彼に「そのうえで、わたしについて来なさい」(マルコ10:21)と仰せられたのです。受肉を持って来られた神は、ご自身を低くし、反逆者、つまり神よりも財物をもっと愛する反逆者に慈しみの態度をもって救いの招待状を送ったのです。その招待状には「来なさい」と書かれていました。使徒パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです...」(Ⅰテモテ6:9,10)と教えました。イエスさまはお金を愛し、試みと、罠と、色々の愚かさと、害になる欲望に陥っている哀れな罪人に「来なさい」とおっしゃっているのです。イエスさまは法を犯した人に「来なさい!わたしを信じなさい!わたしにあなたの心と愛と従順を捧げなさい」とおっしゃったのです。
 ここで私たちは、信仰に対する間違った概念を整理する必要があります。主は律法を犯した金持ちの青年にご自分をどのように提示なさったのか。主は彼にご自分に従いなさいと命令なさったが、そこにはこのような意味が秘められていました。
「わたしから学んで、わたしを見習って、わたしに従順しなさい。あなたがわたしを『先生』と呼んだので、今からわたしに僕と弟子の態度を見せなさい。あなたが私を口だけで先生と呼ぶのをわたしは望まない。本当に私を先生と信じなさい。来てわたしに従いなさい!」

 主が「わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(ルカ6:46)と責めたのを記憶しなさい。
 「そのうえで、わたしについて来なさい」(マルコ10:21)という主の命令は現代の伝道方法を根こそぎ揺さぶってしまうものだった。しばしば多くの説教などに「イエスさまは人々の困窮と危険から抜け出し、助ける個人的な救い主です」というメッセージが密かに内包されています。そのような説教での主は、救い主となれると許可する許可証にハンコを押す、すべての人を助けるために万全の準備を整えておられる方として提示されます。しかしその方は「従うべき先生」や、「従順すべき主」として提示されてはいないのです。しかし弟子として、主に従いなさいという要求が聖書には、初めからはっきり提示されるのにです。狭い門と険しい道は永遠の命へ至ると始めの部分に置かれています。狭い門に入りなさいという命令は、普通の信者より、もっとも熱狂的な信者たちのために後で追加された命令ではないです。
 もちろんイエスさまが「苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)であるのは事実である。だけどイエスさまはご自身について来るのを断る人にも救いの恵みを施すのではない。もしイエスさまが金持ちの青年に「わたしは誰にも天国の宝と永遠の命を与える」とおっしゃったのなら、それは彼を騙すことばになったでしょう。イエスさまはご自身を主と認め、ひざまずくことを断る人には救い主にはなりません。罪人はこの事実を確かに知らなければならない。
 イエスさまを主と受け入れるのは選択事項だと密かに暗示する、今の時代の人間的教理はイエスさまの思想ではない。イエスさまを「救い主」(Savior、救出者)として受け入れるのが第一の段階で、「主」(Lord、ご主人)として受け入れるのが第二段階とする思想はイエスさまの教えではありません。イエスさまを主として受け入れるのが最も大きな祝福を受けるのに必要だけど、天国に入って行くのに必要ではないのだというのは間違っている。イエスさまを主人として受け入れ、従うことを断る人たちにもイエスさまは喜んで救い主になってくださるという今日の変質された福音は多くの人を騙しています。このような福音は偽物である。イエスさまの救いの招待状には「そのうえで、わたしについて来なさい」(マルコ10:21)ということばが書いてあります。
 

 キリストの弟子になろうとしたら十字架を背負わなければならない

 イエスさまの主権を実際的に認め、従順を通してイエスさまの統治に屈服することこそ救いを受けられる信仰の確信です。「口でイエスを主と認める」(ロマ10:9)人だけが救いを受けられるでしょう。「信仰」と「従順」は、互いに引き離せない関係であるから新約聖書はこの二つの単語を同じ意味で使用します。 
 聖書は「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と教えます。信じるのは従順することです。従順がなければあなたは命を見ることはできないでしょう。キリストの笏にひれ伏さなければあなたはイエスさまの犠牲の恩恵を受けられないでしょう。直ちにこのような話をイエスさまが金持ちの青年になさったのでした。
 金持ち青年は心から永遠の命を得たいと願っていました。永遠の命を得られるのだったら彼は主を自分の心の中に喜んで招待したでしょう。しかし主は彼の招待を待ってくださらなかった。むしろ主はご自身の条件を提示なさった。
 「来てわたしに従うなら、わたしがあなたに永遠の命を与えよう。わたしの僕になりなさい。わたしが「あの預言者」であるので、わたしの教訓に屈服しなさい。わたしがあなたの王であるのでわたしの戒めなどに服従しなさい。あなたがわたしの条件に従う時、わたしがあなたに救いと命を与えよう。」
 金持ち青年がイエスさまを救い主と頭で認めたのでイエスさまが彼を救おうとなさったのか。もしそうだとすれば新約聖書は全然違った書になってしまうでしょう。何よりも金持ち青年はとても嬉しい心のままそこを去ったでしょう。もしイエスさまがご自身を主と認めない人の個人的な救い主となることを願ったなら、使徒ヨハネは、「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」(Ⅰヨハネ2:4)と語ることはできなかったでしょう。イエスさまはご自身に従いなさいという条件なしに金持ち青年に天の宝を約束なさったのか。もしそうだとすれば、ヤコブは「行いのない信仰はそれ自体が死んでいる」(ヤコブ2:17)と述べることはできなかったでしょう。
 金持ち青年が得ようと願った永遠の命と天の宝は、イエスさまが彼に与えようと願う救いの一部分に過ぎなかった。マタイの福音書1章21節には「この方(イエス)こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」という預言が記録されています。この預言に照らして見た時、イエスさまは人々の罪と関係なく、彼らを滅びと永遠の貧しさから無条件救ってくださる方ではないです。イエスさまは金持ち青年にご自身を主と認め服従することを要求なさった。そのようにすれば彼は罪の権威から解放され救いを受けられた。一連の事実に同意するのが信仰ではない。信仰はキリストに従うことである。
 周囲の人々にこのように話してみなさい。そうすれば彼らはとてもおかしく思うでしょう。なぜなら彼らはイエスさまから救いの助けを受け入れる概念に慣れているからです。しかしイエスさまは私たちにご自身の統治を認め、ご自分の権威に服従し、自分を主(Lord)として礼拝することを要求なさいます。人たちは主に従うことが「あればもっと良いし、なくても構わない」と考えます。それゆえあなたはイエスさまを絶対的王として受け入れ、イエスに服従するのが天国に入って行くための前提条件だと主張するなら彼らはとてもおかしく思うはずです。
 もしあなたがイエスさまのように明白なメッセージを伝えれば、今日多くの福音主義者たちはあなたに目頭を引き上げるでしょう。彼らはあなたに「なぜ真理を複雑にさせて私たちの教訓を非難するのか」と抗議するでしょう。彼らは、あなたは行為によって得る救いを伝えていると非難しながら「あなたは今日の数多くの福音主義者たちが間違っていると考えてはなりません。彼らに大きな間違いはないので無駄に出しゃばって分裂を起こしてはなりません。おかしな話は止めてください。そうでなければ分裂が起こるでしょう。」と言うに違いないです。
 ましてや連合のためには福音を犠牲にしても大丈夫だと巧妙に訴えるでしょう。福音主義的な伝統を維持するためなら、信仰に対するイエスさまの教訓を犠牲にさせても大丈夫なのだろうか。遺憾なことに、今私たちは連合を維持するために高い対価を支払っている。

 ある人はこうも言うでしょう。
 「あなたは伝道集会で、『イエスさまを救い主として受け入れたい人は前に出てください』ということばを聞いた人は手を上げながら前に進み出て、使役者と一緒に祈りをするのが間違っていると言いたいのか。」福音伝道者のことばによると、それはA、B、Cぐらいに単純なことです。
 Aは、「受けなさい」(Accept)ですが、「神の値なしのプレゼントを受けなさい」という意味であり、
 Bは、「信じなさい」(Believe)ですが、「イエスさまが罪人たちのために死なれた神のひとり子であることを信じなさい」という意味であり、
 Cは、「告白しなさい」(Confess)ですが、「あなたが罪人であることを告白しなさい」という意味です。」
 しかしマルコの福音書10章に出てくる青年、つまり主に永遠の命の道を聞いた金持ちの青年はA、B、Cを全部したとしてもそれだけでは不足だったでしょう。主は彼に悔い改め、ご自分を主と受け入れ、従いなさいと要求なさったからです。
 私たちの時代の人たちはイエスさまに関して多くの話を聞きました。しかしイエスさまが金持ちの青年との事件を通してくださった教訓は地に埋められ忘れ去られてしまっています。まして信仰という単純な概念すらも曲解されています。それゆえこれから私たちは主がおっしゃった永遠の命への招待を思い起さなければならない。そして屋根のてっぺんに上ってこのように叫ぶべきです。
 「おお、嘘に騙されている世代よ!主に従わなければ永遠の命はない。服従する姿勢で主の招待に応じなさい。そうすれば永遠の命を得られます。」
 私たちの主イエス・キリストは、永遠の命への道を聞いた金持ちの青年に正直に告げました。主に従おうとすれば十字架を背負わなければならない、と告げられました。十字架は苦しみの象徴です。主は弟子たちに、世にあっては苦難を受けられると確かに教えました(ヨハネ16:33参照)。主は金持ち青年に初めから「わたしに従順しようとすれば、不便と犠牲を覚悟しなければならない」と仰せられました。金持ちの青年は、自分の肉的な欲求を充足させるところから来る楽しみを放棄しなければならなかった。しかしもう一歩進んで、彼は律法に照らして問題がないと思う正当なものまでも多く放棄しなければならなかった。多分友たちも失ってしまうこともあり得た。自分を調べ、祈りをする苦しい時間も承知しなければならなかった。主の弟子になるとは、多くの対価を支払わねばならなかった。
 
 伝道対象者に率直に接近しなさい。

 イエスさまは「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者があるでしょうか。」(ルカ14:28)と告げられました。このことばには次のような意味が含まれています。
 「わたしはあなた方を騙すことを望まない。わたしはこの世にあってあなた方の悩みが終わりだと約束しない。楽に休んで楽しく生きられると約束などもしない。偽りの甘言利説であなた方を呼び集めようとはしない。わたしについて来る道は険しく狭い道だ。その道は初めから終わりまで暴風雨が吹きまくる。苦難の山と屈辱の谷間がまことのキリスト者たちを待っている。わたしが話す十字架はわたしの弟子たちに押し寄せる苦難と犠牲を象徴するのだ。わたしはあなた方がわたしに来ることを願う。だけどわたしについて来ようとする時、支払うべき費用を計算してみるがよい。」
 キリストを受け入れなさいという現代福音宣教は多くの場合に人々を騙す(もちろん意図的に騙すのではない)。今日も福音伝道者たちは人々にこのように宣言する。
 「皆さんは悲しく、寂しく、落胆した失敗者たちです。皆さんには生活が重荷です。苦しみは終わらないです。未来は暗くて恐ろしいです。だからキリストに出てきてください。主がすべての問題を解決してくださり、皆さんの唇から微笑みがあふれるようにさせるでしょう。」
 彼らが伝えるキリストは、相談室でただ一度の相談によって人々の問題を全部解決してあげる「宇宙の心理学者」であります。彼らはキリストが要求なさる十字架は伝えない。キリストに従うためには犠牲と苦しみを承知しなければならないのも伝えない。
 それゆえ伝道集会で「現代版福音」という、一粒の治療薬で試して見ようと説教壇の前に出て来た人たちは二度と教会に姿を現さないのは当然のことである。彼らのこのような反応は軍隊に入隊した新兵の反応を連想させる。彼が軍入隊の説明会に参加した時、講師は「軍に入隊すれば色んな所を回り、新しいのを見ることができ、人たちに尊敬を受け、お金を稼げる、興味深々な訓練も受けられる。」と言います。だけど朝早く起きなければならない、長い時間行軍しなければならない、時には飯作りにも回されることについては言及されなかった。爆弾が落ちて血を流す戦場の恐怖についても説明しなかった。説明会で軍隊生活の大変さについて聞けないで軍に入隊した新兵は失望と絶望に陥る。
 伝道集会でキリストを信じると簡単に決心した人もこのような新兵のようになります。彼は決断した後の何日の間はキリストを告白する。それから彼はある日、朝起きて自分の苦労が以前よりもっとひどくなったのを知ることになる。彼の心理的慰めの期間はあまりにも早く終わってしまったのだ。福音伝道者のバラ色の約束に騙されたと判断した彼は、それから教会に出て来ない。
 このような人の告白が一次的な現象で終わってしまう事実を知らないまま、キリスト教指導者たちは、彼を回心者統計に入れておいて、最近の伝道活動(宣教活動)が成功したと言う。しかし彼はバプテスマを受けに現れなかったし、礼拝にも参加しないのだ。教会学校の教師として働いたこともないし、教会学校にも出たこともない。教会で奉仕もしない。伝道もしない、教会の徳を立てるために努力もしない。彼は回心者の統計に数えられ福音伝道者の名声を高めたけど、可哀そうな牧会者と教会には限りなく挫折感と心配だけを抱かせるだけだ。回心者の統計の数字を増やした福音伝道団体たちは、喜びの収穫は収めたけど、可哀そうな教会は混乱とストレスの穴に投げ落とされる。
 真実な福音伝道者だったら、私たちは伝道対象者にもう少し正直に接近しなればならない。永遠の命に関心があって訪ねて来た人がいたら、彼を金持ち青年のように扱わなければならないのです。私たちは彼に十字架を背負いなさいと要求なさる主のことばをそのまま伝えてあげるべきです。「キリストを受け入れる決断」がどれだけ真剣であるべきかを彼に十分認識させるために私たちは「起きて説教壇の前に出でください。」と言わないで、「まず座って代価を計算してみなさい」と言わなければならない。私たちは彼に次のように言わなければなりません。
 「何も考えずに入ってきてはなりません。まずすきを手にしたなら後ろを振り向いてはなりません。天国に宝があるのは事実だけどそれはこの地において十字架を背負う人の分です。」
 このようにするのが聖書的伝道だけど、現在流行する伝道方法はこのようにしないです。今日教会の説教者たちは説教を終えた後に、決心者たちによって彼らの決断を外形的に現れるようにする順序を進行させます。なぜなら罪人たちに「家に帰って永遠の問題について真剣に考えてみてください。」と言って、彼らをそのまま帰らせば、後で失望するからです。もう一度申しますと、伝道集会での絶頂の瞬間に罪人たちが「キリストを受け入れる決断」を外形的に表すのを見せるために、その集会の長い時間を我慢しながら待った信者たちの期待を裏切る訳にはいかないからです。罪人たちによって家に帰って真剣に考えて見るようにすることは伝道集会の可視的な実を自ら放棄することになるからです。罪人たちが「悲しみながら」家に帰って行くのをどうしても見てられないからです。
 主に永遠の命への道を聞いた金持ちの青年が、罪を悔い改めて主を信じたという証拠はないです。だけど、少なくても彼には福音が明確に提示されました。少なくとも彼は福音が自分に何を要求するのかは知るようになったからです。少なくても彼は安ぽい品物をセールするように福音を売ってしまう福音伝道者に騙され「自分も分からない信仰」を告白しなかったからです。人の心を巧妙に動かす心理学的テクニックに遊ばれなかったのです。事実彼は自分が初めに、主にした質問に対する答えは聞いてから帰って行けたからです。
 
 
 
 
  
  
 
 
5.まことの救いの確信を失った  47
   
        回心者の数字を増やそうと努力しないで、神の働かれるのを見なさい。
 
 
  
        

 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。マルコの10章22節
 
 
 
  
  
 
人間が救いの確信を与えられるのではない。

金持ち青年との対話で主は、救いの確信の問題について言及なさらなかった。しかしこの問題に対して主の沈黙は逆説的に私たちに教訓を与える。残念ながら、今日多くの福音伝道者たちが救いの確信を与える聖霊さまの働きを自分たちが代わりにしなければならないという強迫観念に支配されているようだ。このような現象が現れたのは、彼らは伝道の対象者が説教壇の前に出てくるのをキリストの前に出てくるのだと誤って考えているからである(もちろん説教壇の前に出てくる伝道対象者が使役者の祈りに従って告白すると、彼は真剣な心で神さまに祈りをしたのでしょう)。
 伝道集会でキリストを受け入れたいと、人が説教壇の前に出てくれば、使役者の導きに従って「救いの儀式」が進行される。この儀式の順序は使役者が「神さま、自分の生活の中に入って来てくださったことに感謝します。神さまが約束してくださったように私の祈りを聞いてくださり感謝します。」と祈りをして、伝道対象者がその祈りについて祈るのです。しかし私が見た時、その祈りは神さまに捧げる祈りというより、伝道対象者のための祈りに過ぎないです。
 その祈りが終わると使役者は(例えば)ヨハネの福音書3章16節を広げて「神がこの「世」を愛して...」を、「世」という単語の代わりに伝道対象者の名前を入れて読みます。そうした後に、自分が何のことをしているのかも分からない使役者は、神の御名によって伝道対象者に向かって「今あなたは救われました」と宣言します。そしてついでに「あなたが救われたことを疑うのは、神さまを嘘つきにさせることなので疑いの罪を犯してはなりません。」と、確信のことばを付け加えます。
 霊魂を殺すこのような異端的な方法が生まれたのは、私たちが神を軽視し、律法を伝えず、悔い改めを要求しないで「キリストの統治に屈服して十字架を負いなさい。」とも叫ばないで、信仰を「プレゼントとして受けた」ことと解釈したからです。
 一、二句の聖書聖句を持って伝道対象者を説服させようと努力しながら、そこに「神を嘘つきにさせてはだめ」と言いながら荒唐な警告まで付け加える場合、伝道対象者は心の中で、「あ、使役者の祈りについて祈りさえすれば、永遠の命をプレゼントとして受けそうだな!」と考えるようになります。もちろん使役者がそのようになるように意図的にはしなかったが、結局伝道対象者はそのような印象を受けるしかないでしょう。
 度々、正統の教会なども「人間が与える救いの確信」を伝道対象者に植え付けさせています。異なる点があるなら、信仰相談室が教理講義室に変わったり、「祈りを真似して祈る」のが、「教理的質問に答える」のと、変えられてしまったのです。教理講義室で講師が投げる質問に反応する、常套的な答えなどがキリストを信頼しているのだと、十分な証拠として看做す。このような教理過程を通過した人が、ある大きな罪を犯さないがぎり、その回心は疑う余地がない確かなものとして看做す。もし、ある若い受講者の心に疑いが生じれば、既成世代はそれらは契約がまだ理解できていないからだと話す。既成世代のこのような反応を見極めてきた若い世代は、確かな教理体系に対する知的同意が救いを保証してくれるのだと結論を下す。
 正統教会などで発見できるこのような風の伝道方法も、恵みの内的体験の必要性を無視することである。神と、律法と、悔い改めと、信仰に対する正確な定義が与えられているのにも、頭の中での定義として終わってしまう。そして、キリストの主権を認めて、この世で十字架を負いなさいという要求を提示するのは省略されてしまう。
 主は金持ち青年に向かって、ご自身の祈りに後ついて祈りなさいとも、ご自身の教理的質問に「はい!」と答えるようにしながら対話を終わらせたのでしょうか。そうではありません。彼を愛する主は、彼が、まことの悔い改めと、信仰によって彼が創造主と霊的に結合することを願われました。もし、福音主義の伝道方法を使用する使役者がその場所にいたなら、その金持ち青年が離れて行く前に、彼に救いの確信を植えさせて上げたでしょう。そして、彼の回心について疑問をそれ以上提起しなかったでしょう。そしてその使役者はこのように言ったに違いないです。
 「あの伝道対象者は道でイエスさまの前に「出て来た」。彼は、正しい祈りを捧げながら永遠の命を願った。心に感じるものがあったのか、悲しんだ。涙まで流した。なので、彼が救われていないと言う人がいれば神さまを嘘つきにする罪を犯すのだ。彼の生活に大きな罪がなく、その教理は健全なので、彼は契約の子孫なのは疑いの余地がない。」
 しかし彼は契約の子孫ではなかった。回心もしなかった、真理に深い影響を受けることが起きるのもある。悪霊たちも健全な教理を信じて震える。(ヤコブ2:19参照)。イエスさまを尋ねた金持ち青年は信じて悲しんだのはあるけど、やはり救いを受けていない状態に留まっていた。

 救いを受けた者の特徴 

 マルコの福音書10章17-27節は、今日福音伝道者たちが主張する「救いの確信」の問題点なども表している。彼らは「このような兆候などを見る限り、神さまがこの人を救ったのは間違いない」と言いますが、彼らが話す兆候などには根拠がない。根拠のない兆候などを掴む人たちが、私たち福音主義の陳栄にも多くいるから私は反復して言います。
 永遠の命への道を知りたがる一人の金持ちの青年は、人たちが見る目の前で主に出て来たけれど、救いを受けた訳ではなかった。彼が正直な心で永遠の命への道を聞いたけど、彼に永遠の命のプレゼントは与えられなかった。キリストのことばを聴いて心に動揺は起きたけれど、回心した訳ではなかった。もし彼が、教理講義室で受講する立場であったなら優等生として教理過程を終えたでしょう。(なぜなら彼は、主が自分について指摘なさったことを率直に認めたから)。しかし彼はやはり救いを受けられない状態に留まっていた。
 もし、ある福音伝道者が、財物を愛したこの金持ち青年に救いの確信を与えたなら、その福音伝道者は神を相手に戦う人になったでしょう。その人は金持ち青年に「命を求めるあなたの願いを神さまは応答なさいました。なぜなら神は口を持って求める人たちにいつも救いを与える方だからです。」と、話したなら、その人は嘘を言ったのです。これは彼に嘘の望みを植えさせることで、イエスさまのおことばを否定し、その魂を滅ぼすことになるのです。
 悲しんでいる青年に、「あなたは契約の子孫なので、救いの問題などは心配することはありません。」と言ったなら、それもやはり、嘘のことばになるでしょう。しかしこういう風に嘘を言う牧会者たちと、伝道者たちが今日多くの人々に偽の平安を与えています。罪人たちに偽の平安を与えることこそ、聖書が示す偽預言者の特徴です。
   
 ...預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。 エレミヤ6:13,14 

 
 人々に神の子供だという確信を与える方は聖霊さまです。信仰の先祖たちなら今日流行する、言わば、「救いの確信を得る方法」を使用なさらなかったでしょう。
 救いの確信に対する聖書の教訓を確かに宣言したウェストミンスターの信仰告白書(カルヴァン主義的神学伝統に基づいて1616年に作られた改革主義の信仰告白書)は、私たちが深く吟味してみなければならない信仰告白書です。(これと類似する信仰告白書がバプテスト連盟ロンドン信仰告白書とバプテスト連盟フィラデルフィヤ信仰告白書で発見される)。その信仰告白書18章1-4条を見たら次の様です。

 1.新生していない人たちは特に偽善者たちは、嘘の望みで自分たちを騙す。彼らは神の恵みによって救いを受けたと錯覚の中に留まる。彼らの望みは無駄な望みだ。しかしイエスさまを真実に信じて、主を誠実に愛して、主の御前に善なる良心で生きようとする人は、この地において恵みによって救いを受けたことを確信し、神の栄光を望みながら喜び楽しむ。彼らの望みは彼らを決して恥を見させない。

 2.彼らの救いの確信は推測やそれらしい説得や、嘘の望みを根拠としたのではなく、確固たる信仰に基づいてである。彼らの救いの確信は救いの約束などの神的真理を根拠として、その約束などの実として現れる美徳などの内的証拠に基づき、私たちが神の子供であることを、私たちの御霊と共に証しする養子の霊がその証拠としている。養子の霊、つまり聖霊さまは、私たちの相続の保証であられ、贖いの日まで聖霊によって証印されました。

 3.硬い確信が信仰の本質的部分ではないので、まことの信者だと言っても、長い間、色々の葛藤や経験の後に救いの確信に到達するようになります。まことの信者は神さまが自分に与えられたものなどを、聖霊の力を通して救いの確信に至るようになるから、特別な啓示はなくても一般的な手段を通して救いの確信に至るようになる。それゆえ、私たちは力いっぱい奮って、私たちの召しに相応しく選びの信仰をしっかりしなければなりません。そのようにした時、私たちの心が広くなって聖霊にあって平安と喜びをもっと味わい、神をもっと愛し、神に最も感謝し、最も楽しんで力の限り従順し、奉仕ができるのです。(このような生活が救いの確信の正統な実です)。救いの確信は信仰者の心を傾揺解弛させないのです。
  
 4.まことの信者だと言っても色々な理由などによって、救いの確信が揺れたり、弱くなったり、一時的になくなったりします。例えば、信者が救いの確信の維持のために努力を怠けてしまうので、信者が特定の罪に陥ったりするので、(このような罪のせいでその良心は傷を受け、聖霊さまを悩ませる)。信者が突然、また強力な試みに陥るから、神がご自分の御顔の光を隠してしまい、信者によって光のない暗闇の中を歩むようになさるので、そうなります。しかしそのようになるとしても、彼らから神の種、信仰の命、キリストと兄弟同士の愛、そして心の誠実性と義務に対する道徳心が完全になくなるわけではないです。このような事などもあるので、聖霊さまは時になれば、信者に救いの確信を再び与えながら、その時まで信者が完全に絶望に陥らないように捕らえてくださるのです。
 
 永遠の命への道を知ることを願う人々によって悲しみに沈んだまま家に帰って行って「救いの費用」を計算してみるようにするのも時時は必要になる。説教壇の前に出て罪を告白して赦しを求めるのが永遠の命への条件を全部充足させるのでありません。罪を捨て、イエスさまを主(Lord)と、救い主(Savior)と認めて、イエスさまに屈服しなければならないという条件を充足させていない罪人は永遠の命を得ることはできない。ある外形的な行動もこのような条件の充足を代わりにすることはできません。信仰と悔い改めは知性と感情と意思が参与する内的行動である。このような内的行動は外形的尺度によって判断することはできない。
 キリスト者たちに、救いの確信を与える方は聖霊さまです。使徒パウロは「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ロマ8:16)と語る。その通りだ!福音を伝えるある人間が証言するのではない。使徒ヨハネは「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」(Ⅰヨハネ3:24)と言います。
 神のみことばの光に照らして自分を調べる人たちに罪の赦しの与える方は神の霊です。パウロは「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)と教える。イエスさまは「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)と仰せられました。
 
 救いの確信に対する聖書の約束などが誰にも与えられるのではないです。聖書の教訓によると、新しくなり聖い状態になっていない人は神さまが受け入れてくださることは決してありません。「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい...そのうえで、(十字架を背負って)わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)という主の命令は徹底した道徳的変化の必要性を金持ち青年に悟らせてあげたみことばです。しかし彼がその命令をすぐに実行しなかったので彼は「天に宝を積むことになります」(21節)という約束から排除されます。
 もちろん私がこのように言うからと言って、「ある人が外形的に道徳的な行動が彼が永遠の命を得たというのを見せてあげる確実な証拠だ」と言うではないです。神の法を外形的な行動によって守ることは、子供の時から模範的な人が金持ち青年であった。しかし神の法は私たちの霊魂の一番深い所までも徹底して調べて見なさいと教える。神の法は私たちに「あなたは神の恵みによって変化されキリストのみことばに自発的に従順するのか。あなたの意思を動かす動機は何であるのか。どんな考えがあなたの心を支配するのか。あなたの感情はどんな物などに引き付けられるのか、と聞きます。神を一番愛して律法の精神を守る人だけが神から生まれた者であります。
 信仰的情熱というのが、私たちが神に受け入れられたのか、どうかのを判断する尺度ではない。イエスさまに永遠の命への道を聞いた金持ちの青年は来世を準備しようとする正直な情熱を隠すことなく表しましたが、これを見て多くのキリスト者たちは恥ずかしく思わなければならないです。綺麗な生活をするためには、彼の節制と訓練はとても素晴らしいものでした。それにも関わらず彼は救いを得られなかったのです。なぜなら、彼はキリストに完全に忠誠ではなかったからです。キリストに完全に献身する人だけがキリストの弟子になれます。
 イエスさまとの対話を先に始められた金持ちの青年は、その対話が終わる時正確な情報を得たのです。彼の思考が正しくなった。彼はイエスさまのおことばは正しいと判断したが、それは彼がイエスさまのことばを聞いて悲しんだという事実から証明される。もしイエスさまのことばが間違っていると判断できたなら、彼は悲しまいでかえって怒ったに違いない。イエスさまのおことばは理解するのに難しいのではなかった。彼はイエスさまから出された結論に同意した。イエスさまのことばを聞いた時、彼の心の中ではこのように考えたに違いない。「神は聖なのに、私は貪欲である。私が永遠の命を得られる唯一の道は私の財物を捨てることなのだ。天国の宝を得ようとすれば私は主について行かなければならないのだ。」しかし正しい考えだけでは不足である。心から滲み出る真実な態度によって福音真理に従順する人だけが自分がキリスト者だという結論を出すことができる。私たちは「契約の子孫である。私は異端を信じていない、不道徳な行為も行っていないので私は救われた人だ。」と話してはならない。キリストに献身する確かな証拠がある人だけがまことの救いの確信を持てる。
 また私が話したいことは、真摯に罪の自覚がある人だからと言って必ず回心するのではないという点です。自分の家に到着して安楽な寝台に体を投げる時、その金持ち青年は、「今や私の魂は何の問題がないので平安だ!」と言えなくなるでしょう。事実彼の心は不便であった。だけど彼が悲しい気色を見せたとしても神から恵みを受けたと断定してはならない。石のような固い心を持った人々が私たちの周辺にとても多くいるからであり、私たちは「あの人は真理に感動を受け、あのように顔色が変わるのを見たら救いを受けた人に間違いない」と話す傾向があるが、そのように即断することはできない。金持ち青年は感動は受けたけど変化はされなかった。もちろん福音を心から喜んで受け入れ外的変化を見せる人は救いの確信も持って良い。しかし金持ち青年は永遠の命を得るために条件などが正しく公義であることは頭では同意したが、それらを実践に移すのは嫌っていた。
 
 救いの確信について悩みなさい!

 救いの確信に対する聖書の教訓を理解する人が今日にはあまりいないようだ。「私は新生しているのか」という質問の重要性を正しく知っている人も今日あまりいないようだ。キリスト者たちは神が約束を守ることに疑いはないが「私が神の約束の相続人になるために条件をちゃんと満たしているのか」という疑問には支配される。彼らは神が悔い改め、信じるすべての人に永遠の命を与えることは信じる。だけど彼らは「伝道集会の時に前に出て、、使役者の祈りについて祈るからと言って信仰があったわけではない。」と言えるほど分別力はない。教理問答書は個人の恵みの体験の問題を扱っているが、この問題は決して飛び越えることができないほど重大な問題である。
 「私は信じて悔い改めたのか」私は神の恵みを受けたのか、というキリスト者たちの質問は正当な質問である。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)という点を考慮する時、このような質問は正当な質問である。イスカリオテ・ユダのように自ら騙す偽善者たちがいるという点を考慮する時、このような質問は当然投げかけるべき質問である。しかし「私は救いを受けるために何をすべきなのか」という質問は全然違う。第一の質問については、私たちが確実に答えられることはできないが、第二の質問について確実に答えられる方はただ聖霊さまである。
 人々が作り出した枠にはめ込んだ伝道方法に騙され、間違った救いの確信の中で生きて行く人が多くいます。伝道集会が終わった後に平安の中で家に帰って行く人たちも多くいるが、事実彼らは金持ち青年のように悲しみと不安を抱えて家に帰って行かなければならない。救いを受けていない人々は、聖書の教師が与える救いの確信を持っているので、それ以上、神の救いを求めない場合が実際に起こる。
 金持ち青年は神さまに反逆する罪を捨てないまま家に帰って行ったけれど、少なくても彼は良心に刺されていたので、心は不便だった。ある意味で、後の日に彼は悔い改めて主を信じたのかも知れない。だけど、まるで品物を売るように福音を売る現代の伝道方法は、罪に対する自覚を源泉的に封鎖してしまう。その結果、罪に対する自覚を通して罪人を救いに導こうとする神の計画は水の泡になってしまう。人間が作り出した「まだ早い」救いの確信を罪人に与えるのが現代の伝道方法である。従って罪人はそれ以上神さまを求めなくなる。
 アブラハムは跡取りを早くもうけるために人間的な方法を用いた時、彼が得たのは、「野の獣のような」イシュマエルだった。(創16:12参照)。肉的な方法を使用したので肉的な子孫を得たのでした。神は「肉の子供は神の子供ではない」(ロマ9:8)と確かに仰せられる。アブラハムがイシュマエルに「あなたは私の愛する息子だ」と何回も言っていくら聞かせても、神はイシュマエルをお認めにならなかった。今日、多くの福音主義者たちが、現代の伝道方法を通してイシュマエルのような信者たちで教会をいっぱいにさせる。結果を早く出そうとする肉的な方法を使用する福音伝道者たちは、偽の回心者たちを作り出して置いて、彼らを「息子たち」と呼びます。だけど神さまは彼らをお認めにならない。神はイサクのような信者たちを探しておられる。神の子供たちが神の方法を通して生まれた時、神は彼らに「約束の相続者」という確信を与える。
 私たちはイエスさまが見せた福音伝道者の模範を通して、現代の伝道方法と慣習が間違っているのを確かに知っています。イエスさまが「肉的な子供」(金持ち青年)との対話は、肉的な子供が欺瞞の状態から目覚めた時に突然終わってしまう。彼は悲しい顔色をしながら家に帰って行った。
 
 
6.神に対する依存性を失った  56

     人間の努力ではなく、神の力を頼るように教えなさい。
 
    
                  
 
         
                   イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 
                           マルコの福音書10章23-27節
 
 
 
 
 
  救いを受けるのは人間の能力では不可避

  貪欲に陥っている金持ち青年が主に来た時には走って来たが、主から離れる時には悲しみながら戻って行った。しばしば、外に現れている姿だけを見る人は希望的な結果を予想したが、結局失望に陥ってしまう。教会などを回りながら説教するリバイバル師たちは自分たちの説教を聞いて福音に関心を見せる伝道対象者たちの始めの姿だけを見て離れてしまう。だけど牧会者たちは続けて観察するようになる。そして彼らは伝道対象者たちが教会を離れて行く悲しい姿を目撃するようになる。主はこのように牧会者たちが経験する失望と類似した経験をするようになるご自身の弟子たちのために金持ち青年との対話から教訓を導き出しておられる。
  金持ち青年が離れる時、イエスさまは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」(マルコ10:23)と告げられました。しかしイエスさまはこのように語ることもできました。
 「怒りを出す人は、神の国に入ることは、何と難しいことでしょう」
 「らくだが針の穴を通るほうが、姦淫する者が神の国に入るよりやさしい」
 「従順しない子供は神の国に入るのが、何と難しいことでしょう」
 
 主は、金持ち青年の場合を一般的真理の具体的な例として使用なさった。 
主のおことばを聞いた弟子たちは非常に驚いたが、私たちも彼らと似たような心境である。体が大きいらくだが小さい針の穴を通過するのは不可能である。弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(マルコ10:26)と言いながら失望感を現わしたが、私たちもやはり彼らと同じ心境である。主の教訓は想像を超越する。それは人間的な希望の灯を消してしまう。命の門がカンーとして閉められ、人類は天国に入ることができないような感じを受ける。
 「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(26節)という弟子たちのことばに、主は「人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)と仰せられます。主のこのおことばに照らして判断してみるが、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(25節)という主の誇張法が「人が神の国に入るのは難しい」と解釈してはならない。主のおことばはそれが難しいのではなく、不可能だということです!。
 弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(マルコ10:26)と言いましたが、彼らの語句を探索してみた時、それは「人間が救われるのは不可能だ」という意味で解釈されるべきである。主も彼らのことばを聞いて間接的に同意なさった。彼らに主は「人にはできないことですが...」(27節)と仰せられたが、ここには「あなた方のことばは合っている。あなたがたがわたしのことばを誤解していなかった。」という意味も含まれています。
 しかし今日の福音主義者たちが福音伝道について主の驚くことばを聞いて気が小さくなったり失望したのか。悲しいことに決してそうではなかった。彼らは、人々に「天国に至る簡単な3つの段階」を提示させる。彼らはこのようにも言う。
 「天国に至るのはA、B、Cぐらいに簡単です。
 Aは、「受けなさい」(Accept)ですが、「神の値なしのプレゼントを受けなさい」だという意味であり、
 Bは、「信じなさい」(Believe)ですが、「イエスさまが罪人のために亡くなられた神のひとり子であることを信じなさい」という意味であり、
 Cは、「告白しなさい」(Confess)ですが、「私が罪人であることを告白しなさい」という意味です。
 どれだけ簡単ですか!3つの文章になっているこの祈りを捧げれば、あなたは永遠に安全でしょう。そうだとすれば、このように簡単ないくつかの文章によって福音を簡単に伝えようとするのを辞めさせることはできるのでしょうか。それはただ「イエスさまの教訓」のみです。

 神さまが新しい心を注ぐ時に悔い改めなさい!
 イエスさまは金持ち青年に永遠の命を得るために何をすべきなのかを教えてくださった。悔い改めて、信じた時に神の国に入れるというのがイエスさまのおことばである。しかし金持ち青年が離れた途端にイエスさまは弟子たちに「わたしはあの金持ち青年に不可能なことを要求した」という宗旨を告げられます。金持ち青年が自分のすべての財産を売って貧しい者たちに配ってイエスさまに従うのは不可能でした。彼はサタンの僕になっている人であった。彼の知性は曲解されていて、彼の感情は捻じ曲げられていて、彼の意志は罪の奴隷になっていた。彼は悔い改めて信じなさいという福音の命令に従順することができなかった。彼の本姓は悔い改めと信仰に抵抗した。
 預言者エレミヤは人間が罪から立ち返って神に従うのが不可能だというのを卓越な比喩で指摘しています。

 クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができ
 ようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なう
 ことができるだろう。エレミヤ13:23


 修辞的質問に対する正答が何であるのかは自明である。黒人は自分を白人に造り替えることはできない。ヒョウが自分の斑点を好きなように捨てることはできない。預言者エレミヤのことばによると、「悪に慣れたあなたがたは、悪を捨て善を行なうことができないよ。」という意味が含まれている。
 金持ち青年に「悔い改めなさい!」という命令が下ったけど、悔い改められる力が彼にはなかった。悔い改めを促す主の命令に従順できる純粋な要素が彼の本性の中にはなかった。ましてや中立的な要素すらもなかった。彼の意志を動かしてキリストの招待に応じるほどの善良さも彼の中には少しもなかった。なぜなら彼は罪過と罪によって死んでいるからである(エペソ2:1参照)。半分は生きているのではなかった。中病にかかっているのでもなかった。死んでいるのだった!。
 主が金持ち青年を慈しむ心で「そのうえで、わたしについて来なさい」(マルコ10:21)と仰せられたけど、そのようにおっしゃる瞬間にも主はご自身を遣わした父が導いてくださらなければ誰一人ご自分に来られないことを良くご存知でありました(ヨハネ6:44参照)。信仰の足を1歩でも踏み出せる力が青年にはなかったから、彼が神の国に入ろうとすれば新しく生まれなければならなかった。もちろん彼の意志が自ら新しく生まれることを選択できなかった。イエスさまを信じる人は、すべて「人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれた者」(ヨハネ1:13)でした。絶望と思えるほど貪欲に掴まれていたこの金持ちの青年も新しく生まれなければイエスさまを信じることはできなかった。救いは、人の力では不可能なことなのた。
 「神さまは人間を救うためにおできになるのを、もうすでに成し終えられた」という前提の基で、現代の福音伝道方法が発展して来た。このような伝道哲学は、罪人たちが、神の御子と神の救いに対してどんな反応を見せるのか、ただ見ておられる方として神を提示します。そのような伝道哲学は、この世にあって罪を悟らせ、キリストを現わし、罪人たちを新生させる働きを担う方として神の霊を提示していないので、罪人たちが救いを得る為に自分たちの意志力を発揮しなければならない。子ども伝道のためにハンドブックとして広く使われてきたJ.IrvinOverholtzerの<子供伝道ハンドブック>には、次のような愚かな指針が入っている。
 「私たちは子供が救いを受け入れるようにしなければならない。...子供に、『あなたはイエスさまを受け入れなければならない』と、伝えてあげるだけでは不足です。私たちはその場所で子供がそのようにできるようにしなければならない。」
 現代の伝道方法は、伝道対象者を説得して人間意志に潜在された力が表出されるようにします。
 もちろんイエス・キリストを受け入れるのは、人間意志の行動である。だけど私たちは「人間の意志によってどのように救い主を信じられるのか」と聞かずにはいられない。本来の人間は真理に嫌悪し、神を憎み、神の法から抜け出ようとする本能を持って生まれる。人間の意志は、その人の知性と感情に順応して神の真理を否定し、創造主との和解を拒否し、神さまの命令に対する従順をあざ笑う。人間の意志は、自分と完全に異質的なものを選択などしない。
 イエスに訪ねてきた金持ちの青年は、自分の財産を全部売って貧しい人々に配ってあげ、主に従うことができなかった。現代の伝道哲学は悔い改めて信じることができる先天的な能力が人間にあるという前提を続けて掴んでいる。しかしイエスさまのおことばのように、救いを得るのは人間側では不可能なのだ。
 そういうわけで「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(マルコ10:26)という質問は、相変わらず意味のある質問である。これに対して主は「そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(27節)ときっぱり否定されました。悔い改めて信じるのに必要な力が人間にはないけれど。神さまは罪人の心を変えさせ、その人によってすべてを売り、貧しい者たちに与え、キリストに従うようにさせられます。金持ち青年の意志では、自分を神の国の中に連れて入ることはできなかった。彼の知性と感情も同じであった。
 しかし神は彼に新しい心を与えることがおできになる。神は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」(エゼキエル36:26)と約束なさっている。神は金持ち青年の心を相手に再創造の働きを成し遂げるとき、彼は悔い改め、信じることができる。

 信仰は新生の結果である
 信仰は神の主権的な力によって、新しく生き返えた人間の心の行動である。使徒パウロのことばを聴いてみましょう。



        あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、 
         自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるの
ではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:8-10


 神さまは金持ち青年の中に新しい霊を創造なさる時、彼はキリストに従うことができる。キリストに従うのが彼の責任であった。だけど、神さまが彼に新しい性質を与えないかぎり、つまり神が慈悲の中で彼に新しい心を与えないのなら、彼はキリストに従うことができない。信仰は神の霊が成し遂げて新しく生まれる、つまり新生の結果である。
 悔い改めも命のプレゼントを受けた人の行動である。それゆえ悔い改めも神のプレゼントだと言える。ペテロは「『神さまが』イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」(使徒5:31)」と宣言したのです。
 もし金持ちの青年が悔い改めたなら罪の赦しを得たでしょうに。そういう場合、悔い改め自体が救い主のプレゼントであるので、罪人が悔い改めるためには、主権的神さまが彼の石のような硬い心を除去し、肌のように柔らかい心を与えてこそ可能になります(エゼキエル36:36参照)。
 金持ち青年は「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(マルコ10:17)と聞きました。イエスさまは彼に彼の財産を全部売って貧しい者にあげてからご自分をついて来なさいと確かに答えられました。イエスさまの答えを聞いた金持ち青年は自分が永遠の命を得るために条件を充足させることができないことを知りました。もちろんそれは、彼が従順できないように主が止められたからではないです(主はそのようにするように彼に促しました)。彼の外部にある他の力が彼の悔い改めと信仰を妨害したからでもないです。彼の悔い改めと信仰を不可能にさせたのは、彼の悪の心だったのです。
 「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」(マルコ10:21)と命令なさったのは、象に空を飛びなさいと命令するのと同じです。それは飢えている獅子に目の前にある羊を殺して食べるより、ほうれん草を食べなさいと命令するのと同じです。金持ち青年は主のおことばを聴いて、悲しい顔色を見せたのは当然のことです。なぜなら彼は主のおことば通りにすることができなかったからです。
 金持ち青年が離れた後、イエスさまが弟子たちになさったおことばにはこのような意味が含まれています。
 「そうだ!わたしが言いたいのは直ちにこれだ。あの青年がわたしの命令に従うのは不可能だ。しかし神さまは不可能がない。神さまにはすべてが可能だ。」
 全能なる神は、ご自身が造られた被造物の本性を変えられます。陶器師が粘土で器を作るように神は被造物を造られた。ただ神だけが人々を新しくし、ご自身の御子の姿を見習うようにさせます。神が彼らを変えられた時、彼らは悔い改めて信じることができます。
 イエスさまは「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:7)とおっしゃいました。これは、罪人たちに神の力と恵みを完全に頼るようにさせます。彼らは救いを得るために神を求めなければならない。彼らには残った唯一の可能性は彼ら自らできないことを神が成し遂げてくださるように祈らなければならないです。
 私たちの救い主の教訓には、色々の意味が含まれています。事実主は、死んでいる人に起きて歩きなさいと仰せられたのです。金持ち青年は罪と罪過によって死んでいる人でした。しかし主は彼に貪欲の墓から出て来なさいと命令なさったのです。彼に道徳的な命がなかったのにも関わらず、主は彼に財物を捨てご自身を仕えなさいとおっしゃったのです。今日の私たちも福音を伝えるとき、主のように、人々に確かに要求しなければなりません。
 私たちが伝道するため人々に論理的に説明をし、説得をし、懇願するのは正しいことです。だけど、神の力が恵みの中で私たちと共にしなければ、彼らは反応をしません。それゆえ福音を伝えるとき私たちは主を頼らなければならない。実を期待する望みを主の中に置かなければならない。伝道対象者の意志、また、その他の精神的力に置いてはだめです。従って神さまは福音伝道という愚かな方法によって、死んでいる罪人をもう一度生かすことを喜ばれます(1コリント1:21参照)。

 団体などの連合と大規模の集会を頼ってはならない!

 私がこのことばを言うと、ある人たちは私の主張通りにすれば、伝道が萎縮されると反駁するかも知りません。しかし肝に銘じてください。主は萎縮されなかったです。なぜ主は死んだ者たちにみことばを宣言なさったのでしょう。なぜ主はラザロの墓の前で「ラザロよ。出て来なさい」(ヨハネ11:43)と叫ばれたのでしょう。もしあなたがその時、イエスさまのそばにいたなら、「主よ、なぜ死んだ者におっしゃるのですか。命がない死体がどのように命令に従順できますか。ラザロのすべては死んでいるけど、彼の意志は生きている教理を私たちに教えるためですか。」と聞いたかも知れません。本当にラザロは死んだけれど、彼の意志は生きていたのだろうか。イエスさまは「ラザロよ。出て来なさい!」と叫ばれるとき、ラザロの意志が従順できたのだろうか。私たちは死んだ人の意志を説得する方法を学んで彼らを生かせば医師たちは私たちの力を見てびっくりするでしょう。
 ラザロの自由意志がキリストに従順することを決定したというなら、どれだけ当惑な話なのか!しかし死んだラザロは直ちにそのような方法でもう一度生き返らされたのです!彼は壽衣も着たまま墓から歩いて出たのは自分の意志を使用してイエスさまの命令に従順したからです!。そうだとすれば、そのような当惑な話がどのようにして可能なのか。確かに知りなさい。神さまが彼の全人をもう一度生かしたので可能でした!もう一度申します。聞ける耳と、理解できる知性と、従順できる意志を再び生かしたので可能だったのです。神さまは彼に新しい命を与えたから可能でした。彼がイエスさまの命令に反応したのは、死んだ者たちを再び生かす神の主権的な行動の結果であり、またそれを見せてくださるのが証拠です。
 イエスさまは金持ち青年と語る時、イエスさまは知性と感情が死んでいるだけではなく、意志までも死んでいる人に仰せられたのです。金持ち青年は神に向かっては死んでいて、罪に対しては生きている人でした。だけど主は彼に「罪から出なさい!」と命令なさったのです。彼は、神さまが死んだ者たちを再び生かす時にだけ、やっと主の命令に従順することができる人でした。使徒パウロは、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし...」(エペソ2:5)と語りました。これは復活の言語です。復活が金持ち青年には不可能だけど、超自然的な神さまにはいくらでも可能です。
 神さまは私たちに死んだ骨たちに、みことばを宣言しなさいと命令なさっています(エゼキエル37章参照)。旧約時代の預言者エゼキエルと同じように、現在私たちは死んだ罪人の干からびた骨によって満ちている世を生きています。神さまは私たちに、その干からびた骨たちに向かって代言しなさいと命じています。   
 私たちのみことば宣言を通して、死んだ者たちを生かすのが、神の計画です。谷間の骨たちはひどく干からびています。彼らには自由意志という血管の筋すらないです。しかし神さまが息を吹き入れれば彼らは生きて「非常に多くの軍隊」(エゼキエル37:10)になって小羊に従うでしょうし、結局神のいと高き大いなる恵みを褒め称えるようになるでしょう。
 このような深い真理を悟った私たちは、これから神の救いの力が私たちに臨まれるように謙遜に祈らなければなりません。私たちが、団体などの連合や、心理学的テクニックを信じて自信感を持ってはだめです。干からびた骨たちの絶望的な状態と人間のあらゆるテクニックと企画の無力さを悟った私たちは、私たちに与えられたみことばを誠実に、そして確かに叫ばなければなりません。罪人たちは、自分たちの絶望的な状態を悟って主を完全に頼らなければなりません。福音伝道者たちを頼ってはなりません。大規模の伝道大会が開かれるから干からびた骨などに肉を生じさせ、皮膚でおおうのではありません。宣教会などを統合するからといって、「非常に多くの軍隊」(エゼキエル37:10)が作られるのではないです。組織力を良く備えた宣教団体で訓練を受けた使役者たちが、「天国に至るた易い3段階」を持って出て行くからといって、死んだ罪人たちがもう一度生き返るのではないです。誠実な僕たちを通して主権的に働かれる神さまだけが死んだ者たちを生かせられるのです。
 若い説教者テモテに与えた使徒パウロの教訓で、私たちは説教者と罪人の唯一なる望みが、ただ神さまにだけあるというのを学ぶことができます。神さまがくださる望みは大きな望みです。

   主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、
   よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もし
   かすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるで
   しょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめ
   てそのわなをのがれることもあるでしょう。 Ⅱテモテ2:24-28


 説教者たちに残っている唯一の可能性は、神さまが聴取たちに悔い改めを許可なさることです。説教者がいくらことばを良くしゃべっても神に反逆している人々を説服することはできません。いくら頭を回して抜群のテクニックを使ったとしても裕福な罪人たち、若い罪人たち、自信感あふれる罪人たちの足を神さまに向くようにはできないのです。神学を詳細に準備して情熱的に伝えると言っても何の実も結ぶことできません。しかし私たちが準備した聖書的メッセージと聖書的方法に神の力が共にするなら死んだ罪人たちがもう一度生き返るでしょう。
 罪人たちの鐵甕城のようなサタンの手握から抜け出られる唯一の可能性は何処で発見できますか。それは神が彼らに悔い改めを許可なさればよいです。この唯一の可能性は、望みの火を消さないでかえって望みの門を広くします。限りなく広い望みの門を開いてあげるのは人間の努力ではなく神の許可である。罪人が神の許可を期待しながら神の全能なる慈悲を求める時、望みのない可愛そうな者にも救いが臨まれるでしょう。
 他の可能性などは剥奪され、ただ神の力だけを頼るとき、福音伝道が萎縮されますか。決してそうではない!神だけを頼る時、私たちは最も熱心に祈ることができる。祈りは今、私たちに一番必要なものです。祈りをした後に伝道者たちを派遣させなさい。そうすれば彼らは、今も死んだ者たちを生かす神さまが自分たちと共に行かれることを確信しながら情熱的に働くでしょう。私たちが祈る時、罪人たちは膝をかがめながら神に救いの恵みを求めるでしょう。




終えることば

聖書の福音を回復しなさい!


        イエスさまの福音宣言は、今日の福音宣言の差と決して少なくないです。事実とても大きい。現代の福音宣言の重大な過ちは、ただ強調点や、接近方法の差で発見されるのではなく、福音の核心部分で発見できます。私はこの本を通して、神の属性、神の聖なる律法、悔い改め、御座に座られたキリストに屈服しなさいという命令、そして間違った救いの確信について言及しました。このようなものの中で一つでも間違っていれば、深刻な問題が発生します。ましてやこのようなものが全部間違っているとすれば、それは本当に致命的な問題になるしかないです。なぜならそのようなことは、聖書が強調する重要な事項だからである。ある意味であなたは私のことばを間単に受け入れないかも知りません。あなたはこのような疑問を抱いているかも知りません。
 「あれほど多くの福音主義者たちが、あれほど間違うことがあるだろうか。キリスト者たちが救いの問題で人々を間違った方向に導くことが実際に起こるだろうか。福音伝道者たちの伝道、哲学と方法などが、全部間違っていると言えるのか。」
 しかしFolk-rock,(民謡風のロック音楽)とあらゆる薄っぺらな装置と器具などを楽しんで使用する宣教会を良くみなさい。聖書学校の教育、敬虔な書籍など、そして青年宣教会などのテクニックがどんなものなのかを深く考えてみなさい。キリストのみことば宣言方法に照らしてそれらを検討してみなさい。そうすればあなたは今教会が新約のメッセージから遠く離れているのを知るようになるでしょう。特にあなた自身の説教と教育を深く省察してみなさい。
 もちろんすべてが間違っているのではない。だけどとても多くのものが間違っています。すべての人が同じ程度で福音を曲解させたわけではないけど、多くの人たちが真理から外れているのは事実です。「キリストを受け入れる決断」に到達した人たち皆が錯覚に陥っているのではないけど、その人たちの中で多くの人たちが錯覚に陥っています。何よりも聖書の福音を回復しようとする人がほとんどいないです。大体の人たちは福音主義的伝統に、聖書の福音が入れられていると錯覚しています。彼らは自分たちが習慣的に行っているのを聖書の光に照らしてみようとしない。
 もちろん私がこの本で指摘した「悪な伝道方法」を使用している多くの福音主義者たちが、キリストに仕えるために誠実に努力をしているのも事実です。彼らは自分たちの理解力を超越する体験をした人たちです。彼らが間違った方法を使うからと言って、彼らの中にあるみことばの基本真理までも間違っているという話ではないです。だけど福音伝道者として働こうとしたら、真の回心と純粋な動機だけでは不足で、聖書の福音をきちんと伝えられる能力までも備えなければならないのです。
 幸いに、今福音主義者たちは正直な心で「私たちの大型集会と、企画でなぜ神の力は現れないのか」と聞いています。それゆえ今多くの人々が伝えているメッセージの内容を深く検討して見るときが来ました。もう私たちは宣教テクニックや団体の連合のようなことをして言及する薄っぺらな報告書などに惑わされないで、根源的な問題を検討しなければならないです。もう一度申します。今教会と宣教団体が何を伝えているのかを深く悩んでみなければならないです。一番重要なのは、キリストが12弟子に伝えた真理を私たちも伝えなければならないのです。
 ですから今、一番必要なのは、単純な福音を「いくつかの事実など」に圧縮してしまう悪習を打ち壊すことです。まことの福音宣言は神の救いの計画の全部を、罪人たちに説明し適用させることです。主が金持ち青年をどのように相手になさったのかを記憶しなさい。そして主を見習い、メッセージを定め、伝道方法などを決定させなさい。連合だとか伝統とかというので、主の方法を犠牲にさせてはならない。私たちの主イエス・キリストの福音は、どんな対価を支払ってまでも決して放棄することのできない、真珠のようです。福音を殺す習慣を打ち壊して「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう」(ユダ書1:3)。
  
  ただ神にだけ栄光(Soli Deo Gloria)!


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